石田徹也のTwitter botを覗いて。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 先日Twitterに石田徹也の作品のみ紹介するbotを見つけてフォロー。こんな風に専用のbotが生み出されるのを見るにつけ、その死後二十年近くを経て、今や彼の存在は夭折した天才画家としての評価が確立された感を覚える。僕がその存在を知ってからも十数年。久しぶりにそのbotを通してまとまった作品を観て改めて思ったが、一目で石田徹也とわかるそのオリジナリティは驚嘆に値する。いじめて君を彷彿とさせる同じ風貌の青年がどの絵にも登場するので、それで余計わかりやすい面は確かにある。しかしそれ以上に被害妄想の病理がダイレクトに表現されたモチーフ、鬱々と啜り泣きながら助けを乞うているような絵のタッチ、更には容易にメッセージが汲み取れるわかりやすい抽象性、などなど、表現の方向性が見事ぶれなく統一されているのだ。そして今回これも改めて思ったが、石田徹也の絵って、どれも皆、まるで自分が描いたかのようだ。そういう感慨を抱かせる。そういう意味でも唯一無比の存在に感じる。
 既に評価の確立された天才画家の作品を前に、まるで自分が描いたかのようとは何事か!……と怒られそうなことを書いたのは承知している。恥を知れと失笑されても仕方がない。事実、僕には画才などまるでない。こんな絵どう逆立ちしても描けない。それを承知で、石田徹也の作品には、僕が描いたと思わせる力があるのだ。もしも自分が思春期に画家を志して精進を重ねたら、辿り着いた画風があるいはここだったのじゃなかろうか?……そんな風に思わせる力だ。
 そう、力だ。
 ここで太宰治の存在をわざわざ持ち出すまでもなく、受け手に、まるで自分が書いた(描いた)かのよう、あるいは、まるで自分の気持ちが代弁されているかのよう、そういう共感性を強く湧かせることができるのは、おおいなる才能の一つなのだ。
 石田徹也の遺した作品の数々からは、閉塞感漂う現代の日本で、息も絶え絶え、ぎりぎりの心情を抱えて生きているある種の人間の内面を的確に切り取ったインパクト、疎外感を覚えながら生きている人間にはストレートに伝わる共感性が満ちている。現代の日本、しかもその末端で、激しい生きづらさを感じて鬱屈している人にしか表現できない世界。それが普遍化された表現として作品に結実しているのだ。
 あと、これは蛇足だが石田徹也の作品にはピンクフロイドの音楽が似合う気がする。シド・バレットがリーダーだった頃のそれじゃなく、ロジャー・ウォーターズが中心になっていた頃のピンクフロイド。思春期初頭の不安感、陰鬱な閉塞感、被害妄想の表現、更にはそこから自由になりたいと希求する切実さが、妙にこれロジャー・ウォーターズ体制の頃のピンクフロイドの世界観と重なる。僕は思春期の頃にその音楽に深く共感して慰められていた。ゆえになおさら当時のフィーリングが蘇り、石田徹也の世界に心揺さぶられるのかも知れない。