成人式で暴れる馬鹿ども煤けた地元にへばりついて朽ちてゆけ。 | 春田蘭丸のブログ

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願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 成人式が行われる度に毎年どこかで馬鹿が騒いだり暴れたりする。そういう行為が報じられる度に、二十歳って、ここまで精神的に幼稚で甘ったれた存在だったっけ?……と毎年些か不思議な疑念に囚われていたものだ。しかし、ほんの数日前まで勤務していたあの場所に集っていた地元の悪がきどもを思い出せば、内省的視点を微塵も持ち合わせていない、よって、恥を知る心も成熟するきっかけも与えられない、こういう連中が成人式で暴れたり騒いだりするのだろうな……と冷ややかな気持ちが湧くばかりだ。
 ここ以外に世界が広がっている事に思いも至らず、ガキの頃からつるんでいる連中と馴れ合いの関係を惰性で続けながら、頭の悪さを如実に物語るにやけ面で、この場所に朽ちてゆく事しか出来ない、そんな地元密着型の煤けた連中。毎年成人式が訪れる度に、いつものスナックにいつもの顔触れが集い、その話題は、自分達が成人式でいかに痛快に暴れてみせたかを誇張ぎみに語り合うばかり。その繰り返しの中で、仲間内で恋愛したり結婚したり子供を設けたり、中には犯罪に走って更に落ちてゆく仲間を酒の肴に話題にしたりしながら、文化的にも経済的にも貧しいまま、子供の顔で老いてゆく事しか出来ない連中。既に十五歳、十六歳にもなっていて、未だ他者への想像力も礼儀も欠いた醜悪な行為を繰り返しているあの連中が、将来に対する焦燥も苦悩も滲まぬのっぺりした面構えのあいつらが、その後、十三歳で止めてしまった精神年齢を打ち破って成熟する日が訪れるなど、とうてい思えないのだ。焦燥とも危機感とも無縁に、へらへら薄ら笑いを浮かべながら、無駄に時間を蕩尽してゆく位が関の山だろう。
 僕の時代にそういう手合いを体現していたのはヤンキーという存在だった。最近はあまりヤンキーという言葉が使われなくなっただけで、未だそういう連中は根強く存在する。最近はそういう連中の事を地元密着型DQNとでも呼ぶのだろうか? 何れにせよ、そういう連中が絶滅する事はないだろう。偏見と言われてもこれに関しては譲る気はない、昔も今も微塵も共感する余地のない、反吐が出そうなほど大っ嫌いな連中だ。
 もう四半世紀以上も前の話しになってしまったが、自分は成人式には参加していない。同じく成人式に反発を抱いていた高校時代の級友と動物園で過ごした記憶が残っている。もちろん自分の選択を微塵も後悔していない。
 数日前まで過ごしていた職場に対する未練も、当然の如くある筈もない。
 成人式で暴れるような連中が象徴する、ああいう馴れ合いと甘えで成り立つ青春には、悪いけれど不快感と憎悪しか覚えないのだ。