松山ケンイチが村山聖を演じる必然性はない。 | 春田蘭丸のブログ

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 こういうのをデニーロ・アプローチというのだろうか?
 いや、ツイッターのタイムライン眺めていたら激太りの松山ケンイチ君の姿が流れてゆき、一瞬、うん?……となったけれど、その説明によれば役作りのために敢えて太ったのだそうだ。
 こういうのを見ると本当に役者さんは大変だなって思う。役柄に合わせて痩せたり太ったり、肉体さえも無理やり変貌させねばならないのだから。
 その写真で見た松山君の姿も10㌔では収まってはいないと思う。へたすると通常より20㌔くらいは増量しているのではないか? 急激なここまでの体重増加は純粋に肉体面での健康に良くないのは当然として、精神面での負担も計り知れないと思う。急激な己の風貌の変化に心が上手く適応できるとは思えないからだ。よほど心がタフでないと、こういうアプローチを繰り返せば精神的に不安定になったり鬱を発症したり、そういうリスクは確実に付き纏うと思う。
 で、そういうリスクを背負って、それでも役柄に合わせて痩せたり太ったりを繰り返す役者さんたちの頑張りに対して、こういう事を言うのは少し気が引けるのだけれど、実は僕は所謂デニーロアプローチなるものがあまり好きではない。
 そりゃロバート・デニーロが『レイジング・ブル』を演じた時には、生活の荒みとともに肉体も醜く変貌を遂げてゆくボクサーの哀感を表現するために、どうしても太る必然性があった。こういう必然性のあるアプローチに関しては僕もとやかく言うつもりはない。素直に賞賛の意を表する。
 しかし松山君が今回演じるのは29歳で夭折した天才棋士・村山聖だという。その風貌に近づけるために20㌔の体重増量を敢行したのだ。
 はっきり言ってそこまでしてこの役柄を松山君が演じなければならない必然が何処にある? 端から太っていて村山聖のイメージに近い役者さんに演じさせればいいだけの話で、寧ろ、「この役柄に合わせるために20㌔の増量を敢行したんですよ……」と本来の松山ケンイチのイメージぶっ壊した姿で登場されても、押しつけがましいばかりで興ざめしてしまう。松山ケンイチが本来持っているイメージに好感を持っているので、余計こういうアプローチは残念に思えてしまう。
 別に善人ばかり演じる必要はないけれど、松山ケンイチは本来持っている風貌も含めて、そのイメージの範囲内で役柄を選べばよいのであって、今回の村山聖のように極端にイメージから逸脱した役柄は、村山聖のイメージに合う他の役者に任せておけばよいのだ。そういうのが健全な役割分担というものだろう。
 デニーロ・アプローチも度を過ぎると単なるあざとさに堕してしまうと思う。