何度でもやり直しが利く世界。 | 春田蘭丸のブログ

春田蘭丸のブログ

願わくは角のとれた石として億万年を過ごしたい。

 Twitterのタイムラインに以下の呟きを拾った、

気に入らないまま捨て置いた原稿に、ふと目を通しただけで、たちまちすばらしい訂正に、思いがけない転帰に、気づくことがある。

 呟きの主はポール・ヴァレリーbot。フランスが生んだ大文豪の意見に稚拙なものしか書けない素人が共感を述べるのも些か気が引けるけれど、この意見とてもよくわかる。僕もこのアメブロに取りあえず書いてはみたものの、下書きのまま放置してある記事が結構な量ある。その中には、既に自分的には完成しているのだけれど、毎日の更新を目標にしているので、忙しくて記事が書けない時の為にキープしておこう……という姑息な考えで下書きのまま放置してある記事も幾つかある。でも大概は、取りあえず一通りは書いてみたものの、その内容に物足りなさを感じてアップにまでは至っていない、というのが殆どだ。
 下書きのまま放置されたそれらの記事を、それでは完成を諦めたのかと言えば、さにあらず。ポール・ヴァレリーの言う通り、気に入らぬまま放置しておいた記事を暫く時間を置いたあと改めて読み返すと、力んで書いていた最中には気づけなかった欠点に気づける事が多々あるのだ。他にも、この挿話とこの挿話の間にもう一つ挿話を組み込んで話を膨らませる事が出来る……と閃いたり、この部分は説明過多になっていてくどいから、思いきって全部ばっさり切り捨てよう……とか、暫く寝かせた後に読み返す事で、幾つものアイディアが生まれたり、手直しの方向性が見えて来たり、そういう事は結構ある。このアメブロの中でも、そんな過程を経てアップに至った記事は幾つもあるのだ。
 で、個人的にはゼロから書き上げようとしている最中より、ある程度書き上げた内容を手直ししたり、更なるアイディアを盛り込んだりしている時間の方が遥かに至福で楽しい時間だ。これまた引き合いに出すのは烏滸がましいけれど、短編の名手レイモンド・カーヴァーもエッセイの中で似たような感想を述べていたと記憶している。何もない場所に何かを生み出すのはそれなりの労力やエネルギーを要するけれど、ある程度出来上がった文章の細部に拘ったり手直しを施したり、或は新たなアイディアを盛り込んだり、そういう推敲の時間は、どちらかと言えば酩酊の時に近いものがあるように思う。或はこの酩酊気分の心地よさが味わいたくて、僕は文章や詩と取り組んでいるような気もするのだ。
 勿論そうやって放っておいた記事に手を加える事で、その内容が良くなっているとは限らない事は承知している。手直し前と手直し後、誰かに両方の文章を読ませてみても、「どっちも大して変わらないじゃん……」という実も蓋もない感想が返って来るだけかもしれない。或は何度も繰り返し書き直す事で、最初の熱量や勢いが殺がれて、却ってつまらなくなっている可能性だってある。自分なりの拘りであれこれ手を加えても、所詮そんなものは自己満足にしか過ぎないのだろう。
 しかし今は、自己満足に至れるだけでもよしとしたい。ある人が以前こんな事を言っていた、「何かに対して向上心を持って挑むのは、十代、二十代、精々三十代まで。四十代以降は自己満足に至れればそれで十分……」と。
 そういう次第で、今夜も自己満足を目指して、このアメブロに下書きのまま放置された文章や詩の中から、或はもっと遡って、若かりし頃に利用していた大学ノートの中から、書き直す事で良くなる予感を覚えるものを引っ張り出して来て、そこに酩酊の時を過ごそう。……
 やり直しの利かない人生の中で、何度でも書き直せる世界は、僕にとってある種の救済の場である。