秦王政によって、中華世界は、初めて強大な一人の権力者の支配に入った。
夏・殷・周の三代王朝は、中華世界の唯一の支配者であったが、周の建国当初の中華世界は、黄河周辺に過ぎなかった。
しかし、西周及び、春秋戦国時代の間に、各国が、競って、東西南北に領土の拡大の一途を辿ったため、中華世界は、周建国当初と比較できないほど巨大になった。
秦王政は、六国を帆乏し、中華世界を統一すると、重臣の王綰・馮劫・李斯等に「称号」を刷新する、審議を命じた。
夏・殷・周・春秋戦国時代に用いられていた、称号の「王」は、周の時代までは、天下に唯一の称号であったが、春秋・戦国時代を通じて、諸国が成立し、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓が、大野、「王」を称していた。
そのため、秦王政は、中華統一を成し遂げた後には、「王」号に代わる、尊称を求めた。
王綰達は、太古の五帝さえ、超越したとして、三皇の最上位である「泰皇」の号を推挙し、併せて、君主の指示を「命」から「制」へと変え、更に布告を「令」から「詔」へ、自称を謙譲的な「寡人」を「朕」にすべしと答申したのである。
秦王政は、泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って、皇帝と号し、その他は、議の通り、「制」「詔」「朕」として、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した。
そして、秦王政は、「始皇帝」を称したのである。
「始」は、「最初(一番目)」の意味である。
「皇帝」の称号を受け継ぎ、代を重ねる毎に「二世皇帝」「三世皇帝」と名乗らせようとした。
「皇帝」は、前述の通り、太古の時代の「三皇」「五帝」より、「皇」と「帝」の二文字を合わせて作られた皇帝は、天皇神農黄帝の尊厳、名声にあやかろうとしたのである。更に、
漢字の「皇」には、「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また、頻繁に「天」を指す、形容語句として、用いられていたのである。
元々、「帝」は、「天帝」「上帝」の様に「天」を統べる、神の呼称だったが、地上の君主を指す言葉へ変化した。
そのため、「神」の呼称として、「皇」が用いられるようになった。
始皇帝は、全ての君主を超えた存在として、「皇」及び、「帝」の二文字を合わせた、称号を用いたのである。
「皇帝」の称号の誕生により、「王」の称号は、格が低くなった。
「皇帝」の称号は、紀元前221年の「秦」の始皇帝による、中華の統一から、1912年の「清」の溥儀の退位まで、2133年間続くことになるのである。
しかし、結果的に、統一王朝としての「秦」朝は、始皇帝の死後、末子の胡亥の代には、滅ぶことになった。
そのため、胡亥は、「二世皇帝」と呼ばれているが、三世皇帝以降は、存在しない。
秦を滅ぼした、項羽は、秦の称号を嫌ったため、西楚の「覇王」を称号としたが、項羽に勝利し、「漢」を建国した、劉邦は、「皇帝」を称した。
「漢」王朝の君主は、劉邦の死後、代々、「皇帝」を称し、「漢」王朝に続く、代々の王朝が、「皇帝を称したため、前述の通り、中華世界の唯一の支配者のとしての「皇帝」の称号は、2133年間続いたのである。
一説には、最初の秦の始皇帝から、最後の清の愛新覚羅溥儀まで、小国の支配者を含め、557人の皇帝がいたとされるが、その全てが、統一王朝ではなかったため、数え方によって、「皇帝」の人数は、異なる。
中華世界の範囲は、時代によって、変遷するが、基本的には、秦の始皇帝の時代の支配領域が、中華世界と考えられる場合が多い。