そのため、楚の旧都の郢陳の民が動揺し、楚の公子である、昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた。

 そして、前述の通り、紀元前225年、李信と蒙恬率いる、20万の秦軍が、楚の国都の郢へ向け侵攻し、秦軍が、寿春に迫った時、昌平君の郢陳にて、叛乱が起き、李信の軍が、討伐に向かったが、秦軍は、壊滅的打撃を受けたのである。

 楚の将軍、項燕は、中国史上有名な、西楚の「覇王」、項羽の祖父である。

 秦王政による、秦の統一戦争の際に、秦軍に勝利を治めたのは、趙の李牧及び、楚の項燕の二人しかいない。

 項燕の息子としては、項梁・項伯が、知られており、孫は、項羽とその従兄弟の項荘である。

 しかし、項羽と項荘の父は、項燕の息子のはずであるが、その名は、不明である。

 紀元前224年、秦王政は、考えを改め、王翦に60万の大軍を与えると、楚に侵攻させた。

 王翦は、強固な防衛を攻撃で、超えるのは、困難と判断し、堅守・不出の戦術を採用する。

 王翦は、項燕の防備に隙が出来る様に仕向けた後、項燕の軍を奇襲して、楚軍を大破した。

 そして、楚王の負芻は、秦の俘虜となったのである。

 項燕は、淮水以南において、負芻の異母兄弟、楚の公子であると同時に、秦王政の家臣の昌平君を楚王として、擁立して反抗した。

 紀元前223年、王翦と蒙武は、楚軍を追撃すると、昌平君と項燕は、戦死したため、楚は、遂に滅亡し、秦の九江郡となった。

 紀元前222年、秦の王翦と蒙武は、楚の江南に侵攻して、平定に成功した。

 更に、王翦と蒙武は、東越の王を降して、秦の会稽郡とした。

 蒙武は、秦の将軍、蒙驁の息子である。

 蒙驁は、斉の出身で、秦に移り住み、将軍となった。

 蒙武の息子は、蒙恬及び、蒙毅の二人がいる。

 蒙恬は、当初、文官として、宮廷に入り、訴訟・裁判に関わっていた。

 前述の通り、蒙恬は、紀元前225年、秦の楚攻略の際、李信の副将になり、楚を攻めた。

 紀元前222年、秦の王賁が、遼東に燕及び、趙の亡命政権の代を滅ぼすために侵攻した。

 王賁は、平壌を陥落させ、燕王喜は、秦の捕虜となり、燕は、遂に完全に滅亡した。

 王賁は、代に侵攻し、代王嘉を捕虜とした。

 その結果、趙の亡命政権、代は、滅亡し、趙は、完全に滅亡したと言える。

 秦は、韓・趙・魏・楚・燕を滅ぼし、残りは、斉のみとなった。

 前265年、斉の襄王が死に、息子の田建が即位し、母の君王后が輔政したが、前249年、君王后が、死去し、君王后の族弟の后勝が執政した。

 前述の通り、后勝は、秦から、賄賂を受け取り、秦の都合のいい様に襄王に主張した。

 斉王田建は、后勝の主張を聞き入れたため、五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった。

 紀元前222年、韓・趙・魏・燕・楚の五国が、滅亡すると、斉王田建は、秦の侵攻を恐れ、将軍及び、軍隊を西部の辺境に集結させた。

 紀元前221年、秦王政は、将軍の王賁に対し、斉の攻略を命じた。

 蒙恬及び、李信が、斉攻略軍に加わった。

 秦の軍勢は、斉軍の主力が、集結した、西部を避け、元燕の南部から、南下し、斉の国都、臨淄へ侵攻した。

 斉軍は、秦軍の突然の北面からの侵攻に、不意を突かれ、瓦解した。

 斉王田建は、降伏し、斉は、遂に滅亡した。

 秦は、斉の地に斉郡及び、瑯琊郡を置いた。

 紀元前221年、秦王政は、「戦国の七雄」と呼ばれた、韓・趙・魏・燕・楚・斉を滅ぼし、遂に、中華世界を統一した。

 秦は、紀元前236年の統一戦争の開始後、わずか、十五年で、六国を滅ぼしたのである。