前述の通り、晋の分家、曲沃の第三代当主、姫称は、紀元前679年、翼の本宗家を滅ぼし、晋を再統一し、武公の諱を送られる。
武公の死後に、武公の晋の再統一戦にて、活躍した、太子の姫詭諸が、献公として、即位する。
献公は、大夫の士蔿の献策の許で、宗家の威勢を脅かすようになった、曲沃の桓叔・荘伯を祖とする、公族を滅ぼし、宗家の権威を確立した。
その結果、晋を隆盛し、献公は、その功績によって、士蔿を大司空に任命した。
大司空は、晋の歴史上、士蔿のみに与えられた、役職であり、事実上の宰相であった。
士蔿の祖父は、周に仕えた杜伯、父は、隰叔。
武公によって、曲沃の家臣に迎えられ、再統一に貢献した。
曲沃の孫の士会は、後世、「晋の歴史上、最高の宰相」と呼ばれることになる。
紀元前667年、晋の本家の公子達が、西虢へ亡命し、訴願したため、西虢が、攻め込んだ。
献公は、西虢を攻めようとしたが、士蔿の諫言を容れて、止めている。
紀元前660年には、軍を増やして、二軍とし、献公が上軍の将、太子の申生を下軍の将に、献公の御者に趙夙、車右を畢万として、周辺諸国の小国、霍・魏・耿を攻め滅ぼした。
献公は、耿を趙夙に、魏を畢万に与えた。翌年には、申生に命じて、東山氏を伐たせた。
その結果、献公は、近隣の平定を終えたと判断し、紀元前657年、西虢を討つために、荀息を虞に遣わし、君主の虞公に、晋の国宝の名馬と宝玉を送り、虢を攻めるために、晋軍が、虞を通過することを許可することを求め、虞には、一切、手を出さないと約束した。
虞の賢臣、宮之奇及び、百里奚は、共に虞侯を諌めた。
この時に、二人は、「唇歯輔車」(唇破れて歯寒し)を引用し、「虢は虞の支えであり、虢が滅べば、虞もいずれ攻められる」と諌言したが、虞侯は、二人の言葉に耳を貸さず、献公の要求に、快く応じた。
西虢攻略は、三年を費やしたが、献公は、遂に西虢を滅ぼしたのである。
献公は、西虢攻略の帰還の途上、虞を滅ぼして、併呑し、更に、領土を拡大させた。
晋の献公は「宝玉は、そのまま、馬は大きくなって戻ってきた」と喜んだ。
虞の滅亡は、後世、攻略対象を買収等により、分断して、各個撃破する作戦、特に、一度、同盟して、利用した、相手を後には、攻め滅ぼすことを指す、「仮道伐虢」と呼ばれた。
「仮道伐虢」は、南朝の宋の将軍、檀道済による、兵法三十六計の二十四計に分類される。
献公は、十七の国を併呑し、三十八の国を服属させ、晋を飛躍的に発展させた。
しかし、晩年は、異民族の驪戎の娘、愛妾の驪姫が、自分の息子の奚斉を太子にしようとしたため、献公に讒言した。
その結果、献公は、太子の申生を殺し、公子重耳・公子夷吾等を遠ざけ、晋は大きく混乱した。「驪姫の乱」である。
大司空の士蔿は、「一つの国に三人の君主がいる。私は、誰に仕えればよいのか?」と嘆き、致仕した。
士蔿は、驪姫の乱の直前に太子の申生に亡命を薦めたが、申生は、晋に留まり、献公に自害させられた。
驪姫は、更に、公氏重耳に対して、宦官の勃鞮を派遣して、自殺を迫ったが、公氏重耳は、自害せず、逃亡を図った。
勃鞮は、公氏重耳に切り付けたが、袴のみしか掠らず、公氏重耳は、母の出身地、白狄への亡命に成功し、公氏夷吾は、郤芮の献言に従って梁に亡命した。
公氏夷吾は、後の恵公、そして、公氏重耳こそが、桓公と並ぶ、春秋の「覇者」、晋の文公である。