神武天皇は、大物主の娘、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。大物主は、大国主の国造りを手助けした神である。大和国三輪山に祀られており、在地豪族であったと推測される。大物主は、事代主(大国主の息子)と同一人物との説もあるが、定かではない。続く、綏靖天皇・安寧天皇も、大物主の娘(もしくは孫)を正妃としており、天皇家は、大和国の在地豪族との血縁関係を深めていくのである。

 天皇家は、庶流を在地豪族の娘婿にして、数多の皇別氏族(神武天皇以降に、姓を賜った皇族とその子孫)を輩出した。皇別氏族の中で、宗家の天皇家を凌駕する実力を得たのは、葛城氏である。葛城氏は、第八代孝元天皇の曾孫、武内宿禰を祖とする氏族である。

 武内宿禰は、第十二代景行天皇から第十六代仁徳天皇に至るまで、五代の天皇に仕え、三百歳を越える長寿であったと伝わっている。棟梁の臣・大臣として国政を補佐し「忠臣」と称えられ、壱園紙幣の肖像として描かれた。特に、第十四代仲哀天皇の死後、神功皇后を補佐して、応神天皇の即位に尽力した功績は大きい。

 武内宿禰の後裔を称する主な氏族は、巨勢氏・蘇我氏・平群氏・紀氏・葛城氏である。古代の姓は、神別氏族(大伴氏・物部氏・中臣氏など、天照を祖としない天孫族)が連姓、皇別氏族が臣姓を賜ったが、有力な臣姓の氏族は、多くが武内宿禰を祖と仰いでいる。
 
 葛城氏の祖、葛城襲津彦(武内宿禰の六男)の娘、磐之媛は、仁徳天皇の正妃として、履中天皇・反正天皇・允恭天皇を産んだ。また、襲津彦の孫娘、黒媛は、履中天皇の正妃として市辺押磐皇子を産み、曾孫のハエ媛は、市辺押磐皇子の皇子、顕宗天皇・仁賢天皇を産んでいる。

 加えて、葛城氏の嫡流、円大臣の娘、韓媛は、第二十一代雄略天皇の正妃として清寧天皇を産んだため、仁徳天皇から仁賢天皇に至る九人の天皇の中で、安康天皇を除く、実に八人の天皇が、葛城氏の娘を母もしくは妻としたのである。葛城氏は、天皇家の外戚として権勢を得て、大臣に就任した。しかし、葛城氏の強大化を警戒する雄略天皇は、円大臣を襲撃して殺害、葛城氏は滅亡した。

 葛城氏滅亡後、代わって大臣に就任したのは、平群氏(武内宿禰の四男、平群木菟の後裔氏族)であった。雄略天皇の時代、平群真鳥は、大臣に就任して、雄略天皇・顕宗天皇・仁賢天皇の四代に渡って天皇家に仕えた。しかし、真鳥・鮪の父子は、驕慢な振る舞いが多く、専横を極めたために、武烈天皇(当時は皇太子)の命を受けた、大伴金村によって誅殺され、平群氏は衰滅した。

 平群氏衰滅後は、大伴金村が大連に就任して、朝廷の実権を握っている。武烈天皇の死後、皇統が途絶えると、大伴金村は、応神天皇の五世孫で、越国の男大迹王を皇位継承者に推戴した。第二十六代継体天皇である。

 継体天皇の時代、武内宿禰の次男、巨勢小柄の後裔の巨勢男人が大臣に就任し、巨勢氏は隆盛を極めた。しかし、武内宿禰の三男、蘇我石川の後裔の蘇我稲目が、次第に頭角を現し、宣化天皇の時代、稲目は大臣に就任して権勢を得る。

 稲目は、娘の小姉君・堅塩媛を、欽明天皇に嫁がせて、天皇の外戚として実権を握った。そして、稲目の息子、蘇我馬子は、物部氏を滅ぼして、蘇我氏の全盛時代を築くのである。