今月の読書です。
『吉野葛』(よしのくず)、『蘆刈』(あしかり)のどちらも、文句なしの傑作。
個人的には『蘆刈』が好みです。
日本語の美しさは魔術の域に達していて、
「日本人で、日本語が母国語で良かった」
と思える文章です。
どちらも、目の前にいる女性を自分の母親のイメージに重ね合わせることで理想化していく、エディプス・コンプレックス(解説している千葉俊二は「恋人(妻)の中に母を求めようとするインセスチュアス(近親相姦的)な欲求」と表現しています)がテーマ……ではないかと思います。多分。
そして、この2編の物語のように、能、謡曲、文楽、歌舞伎といった古典芸能の伝統をベースに、幽玄で耽美な世界に溶いてエディプス・コンプレックスを昇華させてしまうのもありなのかな、と。
考えようによっては、そういう情欲が起こるのは仕方がないと諦めているとも、情欲に正面から向き合うことから逃げているとも言えますが、是非を問うのはひとまず措くことにして、谷崎の、性に根ざした心の問題の処理のしかたは、いかにも日本的だと思います。父親が登場しないのも象徴的です。
でも、わざわざ国語の授業で行うような心情分析ーー心的構造の解明ーーをしなければ小説を理解できないことはないわけで(ついでに言えば、理解できなくても構わないわけで)、できればゆっくり眺め、ときどきは音読して楽しめたらいいのではないかと思います。
ぱぱっと飛ばし読んでしまうには、もったいない小説です。
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なべて自然の風物というものは見る人のこころごころであるからこんな所は一顧(いっこ)のねうちもないように感ずるものもあるであろう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないこういう凡山凡水に対する方がかえって甘い空想に誘われていつまでもそこに立ちつくしていたいような気持ちにさせられる。
(『蘆刈』97-98PP)
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最後の、水上滝太郎の評論「『吉野葛』を読て感あり」(『三田文学』昭和6年6月号)も素晴らしい。
よい文章を書く心得にもなっています。
(略)それなのに谷崎氏は、いつまでも制作の感興を失わない少数の作家の一人だ。殊に私が常に敬服するのは、この作者の好学の志深く、何をかくにも充分調べてかかる事だ。やっつけ仕事をしない。出鱈目(でたらめ)を書かない、間に合せをやらない。すべてが注意の行届いた設計の上に築かれるのである。旺盛なる意思と努力の賜(たまもの)であろう。 157P
(略)むやみに喧嘩面(けんかづら)で、馬鹿野郎とか畜生とか、どっこいそうはいかないぞなどという言葉を地の文に挿入して力んでいるようなのは、おもちゃの刀を振廻す児戯に等しく、空嘘の外の何ものでもない。人を感動させる力は、静かな言葉の中にもあるはずだ。適格なる表現が何よりも力強いのである。よき声は必ずしも大きくはない。 158-159PP
(「『吉野葛』を読て感あり」(『三田文学』昭和6年6月号))