今週神戸新聞に掲載された
老舗の瓦せんべい屋さん「久井堂」に立ち寄って
(割とよく利用しています)
野球カステラ
を買いました。
ここで野球カステラを買うのは初めてです。
(いつも瓦せんべいを買うもので)
「神戸新聞見ましたよ。野球カステラの」
https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/202003/0013217424.shtml
おかみさんはにっこりして
「ありがとう」
こういう雰囲気の鍼灸院にしたいものだけれど、
まあ、自分が変わらないとダメなんだろうなあ。
「お・も・て・な・し」
なんてどこかで思っているうちはまだまだです。
思わないで仕事するのは論外ですが。
思う、を通り越して、身につけないといけない。
大将の仕事ぶりを見ていると、本当にそう思います。
中島敦の「名人伝」に出てくる、
弓というものを忘れた弓の名人のように、
普通に仕事したり休憩したりしているだけで、すでに客をもてなしている。
大将と野球カステラの間に境界がないんです。
大将は野球カステラだ
と言っていいくらい。
もちろん言語学的にはまったくおかしいのですが、
まあ、実際に、久井堂さんに足を運んで、
大将が瓦せんべいや野球カステラを焼いているところを見てみてください。
おすすめします!
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【参考】中島敦「名人伝」のラスト(青空文庫から)
(略)もちろん、寓話作者としてはここで老名人に掉尾の大活躍をさせて、名人の真に名人たるゆえんを明らかにしたいのは山々ながら、一方、また、何としても古書に記された事実を曲げる訳には行かぬ。実際、老後の彼についてはただ無為にして化したとばかりで、次のような妙な話の外には何一つ伝わっていないのだから。
その話というのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。ある日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。確かに見憶えのある道具だが、どうしてもその名前が思出せぬし、その用途も思い当らない。老人はその家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。主人は、客が冗談を言っているとのみ思って、ニヤリととぼけた笑い方をした。老紀昌は真剣になって再び尋ねる。それでも相手は曖昧な笑を浮べて、客の心をはかりかねた様子である。三度紀昌が真面目な顔をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顔に驚愕の色が現れた。彼は客の眼を凝乎と見詰める。相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、また自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、彼はほとんど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。
「ああ、夫子が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」
その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。