私は言える派!
わたしは「さみしい」って言えますね。小説で。
よく、小説作法とか文章上達法みたいな本に
「さみしい」とストレートに書いてはダメ。
動作や風景を描写することで表現しよう。
みたいなことが書いてありますが、
こういうことを言うひとの書いた文章で感心した記憶がありません。
「さみしい」「悲しい」「憎い」といったネガティブな感情もストレートに表現できるのが小説ではないのか。
実際、ヘミングウェイやスタインベックの短篇に登場するひとたちの感情表現は実にストレートです。
読むたびに嫉妬します。
そうでなくても、小説執筆は孤独な作業です。
自分から孤独になる、寂しさのただ中に飛び込むようなもの。
そういう絶対的に孤独な場所から、孤独でないところで生きているひとたちの共感
(厳密に言えば、本当はみんな孤独なんだということをうすうす感じているひとたちの共感)を得ようとする試みが、小説であり文学/芸術だと思います。
たとえば、夏目漱石の『草枕』の冒頭部ほど、芸術が生まれる事情や芸術の必要性を如実に述べた文章もなかなかありません。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
この世界に順応できず適応障害を起こしている孤独なひと、
さみしい今を「さみしい」と書けてしまえる孤独なひと、
「こんな世の中に順応できてしまう方が問題だ」と大真面目に言える孤独なひとでなければ、
小説をちゃんと書けないし、もっと言うと、ちゃんと読めない。
作家に、いわゆる「まともなひと」がいないのには、こうした事情があるのです。
そういえば江藤淳の名言に「作家を見たら病人と思え」があります。