すべての仕事を終え、いやだ、いやだとつぶやきながら、つぶれた居酒屋に歩を進めていた。どんなにいやでも、帰る家は他になかった。ほんの少し前、出直しへの希望を抱いて、弾むような足取りで<マリアの家>へと帰って行った日々があった。帰る先は、古ぼけてこそあれ憩いの園であった。しかし、今在る家は、文字通り<格子なき牢獄>だった。
居酒屋が視界に入ってくると、条件反射のように笑顔の準備をした。出戻りの編集者になってからは、外回りを専らとしていた。女の方が仕事をもらいやすいだろうという姑息な考えが理由だったが、やむを得ずとはいえ、その事は小谷野の日常から男の輝きを奪っていた。
長年に亘って、執筆者を相手に対外折衝に没頭してきた男が、身代を失った店の二階で後始末のような実務を課せられているのだから愉快なはずはなかった。鬱病にでもなりはしないかという危惧が頭から離れなかった。
加えて、恒常的な金の苦労である。自分自身が神経に異常をきたさない様に、持ち得る限りの理性と精神力を動員しての明け暮れであった。しかし、同じ制裁を受けたとはいえ、男子たるが故に、ダメージの大きさは私の比ではないはずであった。少しでも気持を引き立たせようと、無理にでも笑顔を作っていた。
「ただいま」
「おう、お帰り。お疲れ様でしたね」
果たして小谷野は、助かったと言わんばかりの顔で、赤ペンをポンと投げ捨てた。この日も、単調な作業に辟易していたに違いなかった。