「わかっているよ。この時間ならまだ客はいないだろう。その頃に来てサッと飲んで帰るだけだから。滅多に来るわけじゃないし、それ位はいいだろう」
「ええ、まあ…」
これ以上の深追いは危険だった。幸いにも、後続の客はなく、強面の二人は、きちんと勘定を払って出て行った。
極度の緊張から解放され、二人して椅子にへたり込んだ。
「とんでもない事をしてくれたよ。声を掛けるに事欠いてさ。まさか故意にやったわけじゃないだろうな」
「それは考えすぎでしょう。矢口さんに恨まれる覚えはないもの。しかし、驚きましたね。さすがに水商売だわ」
「ああ、なんだか無性に腹が立つ。今日は、早めに閉めよう。勘弁してくれよ、まったく」
「当分来ないと思うから、その間に、今度来たらどうするかを考えておかなくちゃね」
「ああ、そうだね」
二人とも、まだどこか、のん気に構えていた。
しかし、現実はあくまでも厳しく、対策を考える猶予など与えてもらえなかった。翌日、開店早々に入ってきた男を見た途端、総毛立つほどの衝撃を受けた。小谷野はと見ると、彼もカウンターの中で呆然と立ち尽くしていた。一番乗りの客は、誰あろうあの親分であった。しかも、ご丁寧な事に、三人もの御伴を連れていた。昨夜の約束は、ものの見事に反故にされたのだった。
(嘘つきね。滅多に来ないって言ったじゃない。貴方達にはふさわしい店があるはずでしょう。出て行ってよ)。足元が崩れ堕ちて行くような絶望感に包まれていた。
「いらっしゃいませ」
愛想笑いなど、できぬ相談だった。
「あっ、ママ怒っているな。絶対に怒っているよ。マスター、悪いね。すぐ帰るからさ」
「はあ…」
「ビールと刺盛でよろしいですか」
「いいよ。あとさ、この若いのに飯を出してやってくれないかな」
(ご飯まで食べるつもりなの、いい加減にしてよ)。断る訳にも行かず、若い者の顔を見ると、はにかんだような顔で笑っていた。どこか幼いその顔を見ると、急に憎めなくなってしまい、カウンターに入ると、急いでガス釜のスイッチを入れた。