「どうも。私ね、前の店のオーナーだった矢口といいます」
「えっ、そうなんですか。それはどうも、初めまして。マスター、前のオーナーさんですって」
二人して、鄭重に頭を下げた。越してきて日が浅いうえに、この土地の人とはどうも肌合いが合わないようで、踏み込んだ会話を交わす人はほとんどいなかった。時に、歌姫のママや自動車王国の社長が懐かしく思い出され、二人に代わるシンパをどこかで求めていたから、わずかな縁の人でさえも心強く感じられたのだった。
「小谷野と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ。だけど、良い店になりましたね。懐かしくなって、ついフラフラと入ってきちゃいました。色々と訳があって売ってしまったんだけど、こんなに素敵な店になったから、その方が良かったかな」
「見た目は格好いいんですが、何しろズブの素人なもんで、オタオタしています」
「この辺りの客相手に緊張する事ないですよ。さつま揚げでも出しておけばいいんですよ。アハハ」
「うまくお客さんがついてくれればいいんですけど…。知り合いもいないもんですから」
「これだけ良い店なら心配する事ないですよ。あせらないでやってくださいよ。自分はタクシーの運転手をやっているから仲間にも声をかけておきますよ」
「是非、よろしくお願いします」
ビールを一本だけ飲んで、矢口さんは帰って行った。
「さっぱりした人ね。私なら、手放した店を見に行こうなんて思いもしないわ」
「あっけらかんとしていたけど、その実は複雑なんじゃないかな。だけどさ、こっちにとっては有り難い話だよ。口コミが一番だからね。きっと、少しずつ良くなるよ」