第9章 裏 目 (4) | 3.5次元の不倫

3.5次元の不倫

この本は恋愛と人生についての小説ですが、
ひきつづき児童書(英語の対訳付)を書きました。
おたのしみに!

一刻も早く生活の目処をつけたいと焦る気持は募る一方であったし、働く事と前に進む事しか知らない身にとっては、無為に過ごす日々など及びもつかない体たらくであり、罪悪でしかなかった。逡巡の果てに、至近距離に持ち上がっているという某私立大学医学部の誘致話に福運を託してゴーサインを出したのだった。

再出発への意気込みと思い入れは、私達に大きな決断をさせた。中途半端な金の掛け方では将来が開けないとばかりに、店は全面改築する事にした。小さな店の一角は、ブルドーザーの襲撃によって、あっけなくモルタルの塊となって地面に叩きつけられた。(これで、自分達の過去も瓦礫となった。もう、後には戻れない。前を見るしかない)。抗う術もなく壊されて行く哀れな店を、二人で黙って見つめていた。

やがて、私鉄沿線の在所に、ここは銀座か赤坂かと思わせるような瀟洒な店が誕生した。退職金のあらかたは消え、三十年という気の遠くなるような歳月を、ローンと道連れに生きて行く事になった。

(住宅ローンに養育費、仕入れの費用に生活費、膨大な掛かりのすべてをこの店の売り上げから叩き出さなければならない。心もとないけど、何とかしなければ、それこそ女がすたるわ)。どうにかなるだろうと信じるしかなかった。

しかし、外構も整い、いよいよマリアの家を出る段になった時、登校をしぶる子供のように、気持が後ずさりした。日陰の隠れ家を出て、堂々と日向で生きる事になったはずなのに、マリアの家は去りがたく、心は晴れなかった。

門出に不安は禁物であったから、暗い心模様は胸の奥にしまい込んだ。小谷野さんも、至極淡々と新しい船に乗り込もうとしていた。二人とも、不思議なほど寡黙だった。その延長線上に、教師の作り笑いを見たのだった。(神天にしろしめす、すべて世はこともなし。大丈夫よ、きっとうまくいくわ)。朝に念じて店を開け、夕べに祈りて店を閉め、黙々と時を紡いだ。

そんなある日の事、口開け早々の店に一人の男がやって来た。新規の客であったから、張り切って明るく応対した。まさかこの来訪者が、旬菜亭の命運を左右する事になるなど露ほども考えなかった。