その日、私と小谷野は、上野にある割烹旅館の一室で厳父が見えるのを待っていた。自分という人間をハナから色眼鏡でみている人間と相まみえるなど、憂鬱きわまりないのが当然であった。小谷野も緊張しているに相違なく、二人の間に会話はなかった。
「お連れ様がお見えでございます」
仲居の声に、二人は弾かれたように立ち上がった。髪を黒く染め、グレーの背広を着た初老の男性が襖を開けて入ってきた。背丈は小柄で、いかにも実直な人柄にみえた。
「遅くなりました。小谷野君、久し振りだね」
「この度は申し訳ありません」
古谷野が、真っ二つに身体をまげた。
「初めてお目にかかります。卯月とだけ名のらせていただきます。大変な心労をおかけしております。申し訳ございません」
厳父の目をしっかり見据えて挨拶をし、深く頭をさげた。
「こちらこそ。先日は、私の留守中に、家族がみっともない事をしでかしてしまって。皆、まともな精神状態じゃないので、勘弁してください」
厳父の言葉は極めて常識的なものだった。(このお父さんはあの家族の中で、辛い思いをしているんじゃないかしら。とっくの昔に、小谷野の苦しみを理解していたのかもしれない…)