受話器の前で、さっきから何度も深呼吸を繰り返していた。今からかける電話は、今までの人生において一番辛く、またこれからの人生にとって、必要不可欠のものだった。前日に会社を退職し、一途に打ち込んできた仕事は過去のものとなった。残るは、もう一つの過去との決別であった。そのために、前もって電話も引いてあった。恐らくは、誰にも知られぬままに消えてゆく、はかない定めの番号であった。
(穏やかに話しましょうね。お願いします)。相手の魂に働きかけ、ボタンを押した。心臓は高鳴り、胸は張り裂けそうだった。午後九時、家にいてくださいという祈りは天に届いた。
「あのう、私です。お久しぶりです。お元気ですか」
「ああ、どうも。元気ですよ。どうですか、心の整理はつきましたか」
「ええ、まあ…。別々に生きていくという事でいいですか」
「いいですよ。僕に貴女を束縛する権利はありません。力不足で、わるかった。でも、楽しかったです。嘘じゃないですよ」
「最後まで私の思う通りにさせてくれて、本当に、どういう人なんですか」
「貴女は、無気力に生きていた僕をたたき直してくれた。自分ひとりではどうなっていたかわからない。貴女のお蔭で、男としてどうにか恰好がついています。ありがとう」
「こちらこそ。ご両親には、本当に申し訳ない事をしました。何て言ってますか」
「お前がコントロールできるような人ではない。どこかで、こうなるんじゃないかと思っていたって言われましたよ。親の方は大丈夫。心配いりません」
「そうですか。もう少し気持ちが落ち着いたら、お詫びの手紙を書くつもりです」
「そうしてもらえると有難いです」
「では、届を実家の母に送ってくれますか。後は私がやります。家具やなにかは貴方が使ってください。荷物は平日の昼間に整理にいきます。それから預貯金の通帳は私があずかっていますから、すべて解約して折半ということでいいですか」
「全部、任せます。思う存分に生きてください」