「荷物はほとんどなくて、それでもシングルベッドと机、小さなテーブルを置いたらもう一杯だった。貴方がその狭い空間に名前を付けたのよね、マリアの家って」
「マリアの家か…、懐かしいね。苦しかったけど、世間から隔絶されて二人っきり、ある意味で一番楽しかった時期かもしれない」
「そうね。中年の男女が<神田川>の世界を演じていたんだから、確かにドラマチックな日々ではあったわね。でも、既存の人間関係はほとんど失ってしまった。特に母からは、安泰な老後を奪ってしまった。そのせいで寿命を縮めたとは考えたくないけど、もう一度だけひれ伏してあやまりたいわ」
既に鬼籍に入ってしまった母の、あの日の青白い顔に向かって、心の中で丁寧に手を合わせた。