いつもの店でグラスを傾けながら、小谷野課長は搾り出すように言った。
「御方様はこんな事も言っていたわ。小谷野さんが築いてきた外構はうーちゃんの何倍も固い。妻、子供、マンション、課長という立場。固くて厚い外構にガッチリとはめ込まれているのが彼なんだよ。過去を切り捨てて、未来に生きろっていうのは、あまりにも酷な話だと思うし、それを求めるのが本物の愛情とも思えない。二十歳の小娘じゃないんだから、わかるよねって」
「僕は外構なんかに束縛されたくない。心の充足だよ。その気持ちが日毎に強くなっているんだ」
「そうですか。でも現実には、厚い壁に行く手を遮られて思いが千々に乱れているんじゃないですか。私、ご迷惑だから、いっそ、全部を捨てて、一人で遠くへ行こうかって本気で考えているんです。去る者、日々にうとしって言うじゃないですか」
「なるほどね。自分だけ楽になればそれでいいという訳だ。冷たいマリアだ」
「じゃあ他に方法があるんですか? 私はね、茨の道でも何でも歩いて行く覚悟はあるんです。主となら、添うてみせよう、けもの道。なんてね」
「子供のいない人は、とことんお気楽だね。半人前の苦労しか味わっていない」
小谷野さんの顔にも声にもトゲが一杯に刺さっていた。普段なら、「ええ、お陰さまで」と軽く受け流せるはずのこの程度の言葉が、なぜか引っかかった。寛容の文字がどこかにすっ飛び、強い憤りを覚えた。
「可愛いお姉ちゃんと良い仲になって、ロクに考えもせずに子供を作って、今更になって大変だなんて呆れるわ。だから、私は子供を作らないで来たんです」
受けて立つ小谷野課長も、完全に平常心を無くしていた。
「ご立派だね。それなら、ヒョコヒョコと子供を作ったボクなんかとお付き合いなさらないで、一人で高潔な人生を歩んで行ったらどうですか。現に一人になりたいって、さっき言ったんだから」
私は、完全に自制心を失った。