第1章 時空を超えて | 3.5次元の不倫

3.5次元の不倫

この本は恋愛と人生についての小説ですが、
ひきつづき児童書(英語の対訳付)を書きました。
おたのしみに!

第1章 時空を超えて

 良きことも さりとて悪いこともなく

食いつなぐのみ 駆け出したくなる 

車を運転しながら、自作の短歌を口にしていた。オンボロ軽自動車の爆音のような排気音がいつになくカンにさわり、負けず劣らずの大声を出していた。一日が無事に終わった安堵感と、低なりに固まってしまった現状への焦燥感とのハイブリッド、それはいつもと変わらぬ精神状態だった。

郵便受に一通の封書を見つけた時、よもや悪しきことでもと、胸に黒い雲が立ち込めた。手にした封書は、何がしかの変化を暗示するようなオーラを放っていた。

(吉岡麻子、草壁幸太の姉って、一体どういうことなんだろう)。生活の根底を覆すような呪わしい知らせとは半ば縁が切れかけているとはいえ、身に覚えのない相手からの郵便物を見ると、条件反射のように身体のこわばりを感じ、その度に、ぬぐい去ることのできない古傷に鋭く胸をえぐられるのであった。

(草壁さんには、未払い金なんて、ないはずだけど。バカね、何を考えているのよ。支払の話なら本人が自分で連絡してくるに決まっているじゃない! でも、だとしたら何なの? いやだな! 手紙も電話も好きじゃないのよ。さんざん泣かされてきたから)。開ける勇気がないまま、立ちすくんでいた。

草壁幸太というかつて密に時を刻んだ友人の名前にさえも、金銭の決済を重ねてしまう自分がいやらしく思えた。自分への憤りに力を借りるようにして、封を開け、目をこらした。

突然のお便りをお許し下さい。

 私は、草壁幸太の姉で、吉岡麻子と申します。

 私が小谷野様御夫妻にお手紙をお出しすることなど、あり得ない話だと思っておりましたし、その書面が訃報になるなど、及びもつかないことでした。

去る六月の末日、幸太が死去いたしました。五十歳という若さでした。驚かれたことと存じます。

宅配便の不在票に連絡がなく、また電話もつながらないため、宅配業者の方が警察に通報し、幸太は室内で縡切れた状態で発見されました。死後、数日を経過しており、無残な最期となってしまいました。

当初は、事件性の疑いもあったようですが、心臓発作による突然死という形に落ち着き、故郷の鳥取で身内のみにて葬儀をすませました。宅配便の送り主で ある出版社の方から、幸太が長期に亘り仕事を頂いていたと聞かされ、取り急ぎ生前の御礼をさせていただいた次第です。

出版社を辞めてからは定職に就くこともなく、研究者の夢も果たせず、不本意な生涯であったろうと思います。

結婚もせずじまいの孤独な人生の中で、幸太に物心両面で愛情を注いで下さいまして、本当にありがとうございました。これから先、夏が来るごとに幸太の面影を 偲んでいただければ幸いです。

本来ならば母がご挨拶すべきところですが、体調がすぐれず、お察し下さい。ご健康とご活躍をお祈り致しております。ありがとうございました。 かしこ

小谷野吾朗様・卯月様

死んだ! 博士が死んでしまった! たった一人で、泡つぶみたいにこの世から消えてしまった!)。幸太の孤独な魂に、ここにいてくれと頼まれてでもいるかのように、手紙を凝視したまま動けなかった。そこに強力な磁場が存在しているように思えた。

(あきらめはしませんって言っていたじゃないの! どうしたのよ! 最後は、私達の人間性も疑って死んで行ったのだとしたら、寂しすぎるじゃないの!)。幸太との間に埋めようのない溝を作った<>がうとましかった。

(論文につまずいて博士課程の道が先送りになった時、多少の酒に自分をごまかしながらも、まだまだ、夢は捨てていなかった。それから、幾年を経て夢はしぼみ、しぼんだ夢と一緒に肉体も滅んでしまった。石川啄木が好きで、自分のことを啄木になぞらえていたりしたから、不遇のままに、短い生涯を終えてしまったのかもしれない…。ああっ! そうだったのか!)。釈然としないまま心にひっかかっていた現象が、この時、はっきりとした確信となって迫ってきた。

(博士、あなただったのね。あなたが自分の死と無念の思いを伝えたくて、あの夜、やってきたのね。魂魄この世に留まりてって言うのはウソではなかったんだ)。両膝に震えが走り、思わずその場にしゃがみこんだ。強引に消し去ろうとしていた記憶が鮮明に蘇ってきた。

それは、三日程前の出来事だった。その日、夫は出張に出かけていて、寝室で一人の夜が更けて行った。どれくらい眠ったものか定かではないが、不意に<何かの気配>を感じ目を覚ました。おぼろな意識の中にありながら、<見えざる何か>に対して本能的に身構えた。子供を残して死ぬわけにはいかない。そう思わせるほどの恐怖だった。その時、ゴーッというかなり大きな音とともに、冷たい一陣の風が吹き付けてきた。(何これ! 何かが起きる! いやだ、どうしよう!)。

逃げ出そうにも、身体は文字通り金縛りにあったように全く動かず、隣の部屋で寝ている息子を呼ぼうにも声は出なかった。人形のように横たわるのみであった。

次の瞬間、布団が畳から持ち上がったかと思うと、ものすごい力で布団ごと窓際からドアの辺りまで一気に運ばれ、同時に枕元の目覚まし時計が挑発するかのようにコロコロと回転した。この場に魔女でもいるのか、魔女にさらわれてしまうのか! 恐怖と混乱の極みに陥った。

やがて、それが数秒なのか、あるいは数分なのか、はっきりとしない記憶の空白があり、気がつくと布団は元の位置に戻っていて、我と我が身を両腕でしっかりと抱きしめている無事な姿の自分と対面したのだった。ついさっき、魔女の手下のように思えた目覚まし時計は、今はただの時計としか感じられず、その針は明け方の四時近くを指していた。

まだ震えが止まらない。でも生きているのは確かだわ。一体全体、今起きたことは何の騒ぎなの! 夢、それとも現実? 現実だとしたら誰の仕業だというの。まさか、本当に魔女でもあるまいし。それとも、頭がおかしくなっちゃったのかしら)。

いくら考えたところで、わかるはずがなかった。その日からずっと、事故にあってはならじと行動に気をつけていたのだが、幸いにして何事も起こらなかったため、夢だったんだと思って、もう忘れてしまおう、そう考えていた矢先のこの手紙だったのである。

(むざむざと博士を孤独死に追い込んでしまった。彼の無念の思いは、恐らくは海よりも深い。そうでなければ、時空を超えて会いにくるわけがない。私に、どうしろというのだろうか)。

一人の男の生の終焉に呼応するかのように、山肌を赤く染めて、遠く峰丘連山に没して行く太陽を悄然と眺めていた。

「ありあわせで勘弁してね。何にも作る気がしなくて」

焼き魚と茄子焼きの簡素な夕食であった。

「じいさんとばあさんだけなんだから、何でもいいんだよ。こっちだって、帰ってきた途端にこんな手紙を見せられて、バクバク物を食えるような心境じゃないよ。」

「私の身にもなってよ。水橋さんが亡くなってから、まだ一年ちょっとしか経っていないのよ」

「そうだよね。しかし、なんだって、編集仲間の不幸が続くんだろう。僕は水橋さんとは会ったことが無かったけど、貴女からよく聞かされていたし、優子女子のダンナだって知っていたから、やっぱりショックだったよ。だけど無常なもんだね、水橋さんが亡くなったことを知らせてくれたのは博士だったのに、その博士も、もういないっていうんだから」

「本当にね。水橋さんの知らせを聞いた時は、驚くよりも申し訳なくてね。同期の優子に水橋さんを紹介したのは、私と戸田女史ですからね。早々と未亡人にしてしまったわ。うわさで水橋さんがアルコール依存症ぽいって聞いて責任を感じていたんだけど、まさか亡くなるとは思わなかった。お葬式にも例の件の真っ只中で行けなかったでしょう。勘弁してもらうしかないわね」

「だけど、水橋さんはどうしてそこまで酒に頼ったのかね。優子さんとの仲が特別悪かったわけでもないんだろうに」

「世の中にはいるのよ。厭世思想がDNAに組み込まれているような人が。彼もその一人かもね。優子と結婚して、人並みの男として生きてみようと思った時期もあったみたいなんだけど、自分をごまかし通すことは出来なかったんじゃないのかしらね。つまり、彼は与謝野鉄幹じゃなかったのよ」

「与謝野鉄幹?」

「ええ。実は私、けっこう鉄幹に心酔しているのよ。「人を恋ふる歌」の中にね、<ああ吾ダンテの奇才なく バイロン、ハイネの熱なきも 石を抱きて野にうたう 芭蕉のわびをよろこばず>っていう下りがあるの。飲んでいるときに、人生に対する熱情が出ていてすばらしいって私が言ったらね、僕は芭蕉のわびを喜ぶほうだと言っていたのよ。食して一合、住んで一畳あれば十分だとも言っていたわ。生来、闘争心が希薄な人に、天賦の才を生かし切って、名を遂げた先生方とお付き合いするのは、しんどかったんじゃないかしらね。わかるような気がするわ」

「そう、よくわかるよ。出版人はそういう意味では、企画者も編集者もつらい仕事だよ。黒子にすぎないからね。自分は一体なにをやっているのかって、理工舎の後半は特にそう思ったね」

「もしかすると、話相手がほしくて、水橋さんが博士を呼んだのかしらね。あの二人、気が合っていたから。今頃二人で一杯飲んで、大いに文化論を戦わしているかもしれない。私に会いに来るくらいだから、無念の思いがそう簡単に消えるとは思えないけど、仲間と一緒かもしれないって思うと、少しは救われるわ。とにかく、今夜は、博士のことを偲んであげましょうよ」

「そうしよう。死なれたんじゃ、そうするより他にない。生きていれば、蛾だってあんなに幸せそうなのになあ」

街灯の照明を浴びて、舞踏会のように乱舞する蛾の群れを、吾朗はさっきから虚ろな眼差しで見つめていた。

「会社があんな事にならなければ、彼と袂を分かつ事もなかったんだけど、金の切れ目が縁の切れ目みたいな形になっちゃって、寝覚めが悪いったらありゃしない。支払いが滞り勝ちになってから私達を見る彼の目が段々と不信感に満ちてきて、いやだったなあ。ああ、思い出したくもない」

「経営の辛さばかりは経験した人間じゃなきゃわからないよ。いくら彼が大学院を二つも出た博覧強記でも、僕らの悩みは絶対にわからなかったはずだよ」

空になった妻のグラスにビールを注ぎ、吾朗は自分も勢い良く琥珀色の液体を咽に流し込んで言った。

「良かれと思ってスタッフになってもらったんだけど、親しい人とは仕事仲間になっちゃダメね。金がからむと、悲しいかな、人間関係は崩壊してしまうんだから」

「まあ、そう自分達を責める事もないよ。彼には随分と貢献もしたんだから。店をつぶして、一文無しの状態でパッシブエイトを作って、引きこもり状態の彼を世の中に引っ張り出してさ、一時はかなり稼いでもらったんだ。もし彼が我々を恨んでいたなら、わざわざ会いにこないし、あの時、貴女に取り付いて悪さをしたはずだよ」

「そうかもしれない。彼には精一杯の事をしたつもりではいるのよ。よく食事をご馳走したし、旅行に招待した事もあったしね。伊豆にミカン狩りに行った時は大笑いしたもんよね」

「ああ、あれは愉快だった。夏みかんは別料金なんじゃないかしらって貴女が言ったら、博士が、それではショー君のジャケットの中に隠して、私がショー君をだっこしましょう。恐らくばれはしないでしょうって言ったんだよね」

「そう、そう。夏ミカンで雪だるまみたいになって半ベソをかいているショー君を博士がひっかついで、見事手に入れた夏ミカンを見て皆で呵呵大笑したのよね」

「その後の言い草がふるっていてね。いやあ、冷静になると、欲にかられて我を失い、このような行動に走った我が身を恥じ入るばかりですってね。とぼけた部分もある男だったよ」

「そうね。寸劇で主役をやった時なんか大受けだったもの。牧師みたいに生真面目な顔をして、人を喰ったようなアドリブを連発するもんだから、オコリンボまで天井を向いて大笑いしていたもんよ」

「寸劇か……。今思えば、あんな馬鹿騒ぎをしていい気なもんだと思うけど、あの頃はあの会社も儲かっていたからゆとりがあった。出版産業がまだまだ華やかなりし時代だったという事だ」

「お釜の中まで見せ合うような浪花節的な会社だったのに、オコリンボなんていう独裁者は出てくるし、本は売れなくなるしで、会社の雰囲気が一変しちゃって……。そうでなければ、草壁さんも私達も理工舎を辞める事はなかったはずだと思うわ。でも、貴方と私がここに居るという事実も存在しない。不思議よね」

不思議どころの騒ぎじゃないよ、まったく。理工舎を辞めてから、草壁君も僕達もさんざんな目に遭ったわけだけど、僕達の方がはるかにましだね。だって、生命までは取られなかったからね」

「第一、私達にはショー君がいるじゃないの。子供に依存するつもりなんかさらさらないけど、やっぱり先行きがたのしみだわ。だからね、こう考えてみると私達は決して最悪ではないのよ。それに引き換え、草壁さんは死んでしまった。それも、むごい最期だわ」

「さぞかし悔しかっただろうよ。異次元から貴女に会いに来たくらいだからね。僕もあれは百パーセント草壁君だと思うよ。一念というのはすごいものだね」

「成仏できていないのかしらね。水橋さんになだめてもらってもダメかしらね」

「さあね。とにかく、人間の無念を晴らすのはたやすい事ではない」

二人して、押し黙った。やりきれない思いだった。

(もしかすると、草壁さんはここに来ているかもしれない。自分を偲んでくれていることがわかれば、気持が静まるんじゃないかしら…)。

あるいはという思いにかられ、ふと天井を見上げた。白いクロスが、いたずらにまぶしいばかりだった。

漆黒の暗闇の中を、博士とおぼしき後ろ姿が、まるで操り人形のようにフワフワと歩いている。

前方から、ものすごい明るさの大きな光の輪が近付いて来る。

博士、その光の輪に入るのよ! 必死の叫びも空しく、彼は光の輪をそれて闇に向かって歩いていってしまう。

ダメよ! ダメ! 光の中に入らないと霊界へ行けないのよ! この世でさまよう事になってしまうのよ。博士ってば! ああ、行ってしまった! 

これ以上ないほどの夢見の悪さだった。

「博士の夢を見たわ。最悪よ。光の輪を拒否して、真っ暗な闇の世界に消えて行ったわ」

「成仏していないかもしれないなんていう話をして寝たから、そのせいだよ、きっと」

「後味の悪い夢だわ」

いつもなら、小さな水路を隔てて広がる借景を眺めながらのコーヒータイムは極上の時間であった。しかし、この時は気持が虚ろで、茶色の液体を見るともなく見ていた。そして、頭の右上のほうに、あのイメージが降りてくるのを感じた。

不和の家庭で生きて来た後遺症なのか、あるいはそのご褒美なのかはわからないが、自分という人間が<お告げ>に助けられているという強い意識をずっと持ち続けてきた。

夫婦喧嘩の仲裁から進路の決定に至るまで、(今、こうしないと取り返しのつかないことになる)という危機意識が即座の行動に駆り立て、結果として事なきを得たり、事態が好転したりといった経験は一度や二度ではなかったのである。

今また、一石を投じられた水面のように、<御方様>という名前が頭の中一杯に広がり、潮位を越えた。その瞬間、操られたように口が開いた。

「御方様に会いに行くわ」

弾かれたように叫んでいた。