<私もまだ帰りたくないんです>。叫びたい気持に乱暴にブレーキをかけた。口にしてはいけない言葉があると、ギリギリのところで理性が教えてくれたのだった。
駅に着き、電車がホームにすべり込んでくるや、小谷野課長は人目もはばからずに私の身体を強く抱きしめ、小さな声で、
「ありがとう」
と言った。
「明日、また会いましょう」
言いながら、強い力で車内に押し込んだ。すべて、一瞬の出来事だった。呆然としつつも、じっとホームに立ち尽くす小谷野課長の姿を、走り去る電車の窓越しにしっかりと捉えていた。
アパートにたどり着くと、相手はすでに眠っていた。自分の掌から去りつつある妻を、それでも待っていたのか、コーヒーのマグカップがテーブルの上でポツンと所在なげであった。いたたまれずに、外に飛び出した。
(ご免なさい。貴方は私の犠牲者かもしれない。人生に対する焦りから、まだ男として半人前の貴方を巻き添えにしてしまった。でも、どっちにしても、貴方とはもうダメなのよ!)。駐車場の車と車の間に身を潜めるようにして、声を押し殺して泣いた。