野田市のだのだ探検隊:実相寺、宗英寺 | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

7月12日

江戸川を渡るとそこは
野田市である。

千葉県北西部の東葛地域に位置する
人口約15.2万人の街である。

江戸時代から江戸川や利根川を利用した
舟運を中心に発展。

そして醤油の街でもあるのだけれど、
この話はまたあとで。

意外と近くの街なのに、
私は野田を知らない。

だから今日は

「のだのだ探検隊」

に入隊だ。

とはいっても隊員は

おいらだけ。


おいらひとりぼっちなんだ。

「実相寺」



ここは幕末まで関宿藩主を務めた
久世家の菩提寺である。



この寺にはポツダム宣言を受諾した
内閣総理大臣として知られる
鈴木貫太郎の墓がある。



そしてここの客殿は、
関宿城本丸の新御殿の一部を
移築したものと伝わる。



関宿藩主の久世広周(ひろちか)は
老中として阿部正弘らと共に
諸外国との折衝を担当するも、
井伊直弼の怒りを買い罷免される。

やがて桜田門外で井伊直弼が暗殺され、
再び老中に就任。

ヒュースケン襲撃事件や和宮降嫁など
老中として非常に難しい問題を解決するも、
坂下門外で安藤信正が襲撃されたことをきっかけに
公武合体策の失敗を問われ再び老中を罷免。

久世広周は隠居の上、
永蟄居を命じられる。

つまり罪人として一生部屋に閉じこもり、
謹慎していろということである。

広周は失意の中で謹慎生活を送り、
46歳の人生を終わらせたのが
この本丸新御殿であった。


 

玄関。

 

 

 

 

ガラス戸越しに中を覗いてみる。
 

 

 

そして実相寺から少し歩いて
「大龍寺」へ。




 

そして「宗英寺」へ。


 

開基は関宿藩初代藩主だった
松平康元。

徳川家康の異父弟である。




 

山門は創建当時のもので、
柱の葉彫りもまだしっかりと

残っているのが判る。



松平康元の墓。



家康の異父弟とは、

どんな気持ちなのだろう。




墓の裏に康元の名が刻まれている。

 

康元は関が原の戦いで

江戸城の留守居役を務めたこと以外、

その人物についてはあまり知られていない。




こちらは第4代古河公方
足利晴氏の墓。



ここは野田市教育委員会の説明を抜粋しよう。

 「足利晴氏の墓」

 永正5年(1508年)宇都宮で生まれ、
 元服の時室町幕府12代将軍足利義晴の
 「晴」を賜り晴氏を名乗ります。

 戦国時代末期の公方(室町幕府における関東地方の要職)で
 あったがために、家督争いや関東制覇をもくろむ
 北条氏との戦いに明け暮れる毎日でしたが、
 直接の家臣団を多く持っていないため、
 戦いに敗れることが多く、
 天文14年(1545年)家督を子の義氏に譲り、
 その後関宿城に隠居し、
 永禄3年(1560年)5月27日
 享年52歳で死去します。


 

晴氏にとって決定的だったのは、
北条氏康軍と戦った河越夜戦での大敗である。

なにしろ古河公方と関東管領の連合軍
合わせて8万余の兵がありながら、
わずか北条軍3千余の兵が籠る
河越城を攻め落とすことが出来ず、
さらには城の救援に向かった北条氏康軍8千の兵に
なすすべもなく蹴散らかされてしまったのだから。

古河公方や関東管領といった古い権威は、
ここで完全に失墜・崩壊した。


 

関東管領の上杉憲政は
その後も何度か北条へ抵抗するも、
最後は長尾景虎を頼って越後へと落ち延びる。

長尾家はもともと上杉家の
家臣筆頭格を務める家柄である。

憲政はこの景虎と養子縁組し、
家督を景虎に譲る。

家督を継いで関東管領となった景虎は
上杉政虎そして輝虎と名を改め、
法号として謙信を名乗ることとなる。

 

歴史って、

繋がっているんですね。

 

そしてそれは現在へも。


 

 

その隣には船橋隋庵の墓がある。

「随庵流」と呼ばれる治水工法を編み出し、
用水路の開削や新田開発で業績をあげる。

お陰で大幅に水害が減り、
農民からは神の様に崇められたのだとか。


 

しかしそれを妬んだ家老の策略にあって
隋庵は幽閉されてしまうのだが、
江戸家老の木村正右衛門に
身の潔白を訴える血書を送り、
その取り成しで無事に赦免されたという
お話があるのだそうな。

しかしこのお話は

ちょっと出来過ぎの気がする。

 

ホントなんですかねえ?


隋庵は有能な人物で、

関宿藩主の久世広周に取り立てられ、
物頭(足軽頭)から用人を経て
最後は関宿藩の中老にまで昇り詰めている。

隋庵が亡くなったのは明治5年。
享年78歳。

 

鈴木貫太郎

久世広周

松平康元

足利晴氏

船橋隋庵

 

その時代の、

それぞれの様々なドラマがある。

 

そしてそれは、

現在の私たちへも繋がっている。

さてそろそろ宗英寺にアデューして
先に進もう。

 

ボ・ボ・ボクらは「のだのだ探検隊」

まだまだ行くぞ♪