野田市のだのだ探検隊:中の島公園の水門・閘門 | はろはろはうすの<何を食べようか>

はろはろはうすの<何を食べようか>

夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

7月12日

江戸川を渡ると
そこは野田市である。

千葉県北西部の東葛地域に位置する
人口約15.2万人の町。

そして江戸時代から江戸川や利根川を利用した
舟運を中心に発展。

そして醤油の街でもあるが、

この話はまたあとで。

越谷からもクルマを走らせると
実に近い。

近い割に私は野田を何も知らない。

だから今日は

「のだのだ探検隊」

を結成だ。

とはいっても、

隊員はおいらひとりだけ。

「中の島公園」へ。

向こうには天守閣を模した
千葉県立関宿城博物館の建物。

ここは関宿城跡でもあるのだが、
城跡は殆ど河川や堤防に埋もれており
当時の遺構を見ることは難しい。



江戸川に架かる水門。

利根川から江戸川へ入る水量を
調整するための水門で、
大正7年に着手し昭和2年に完成。

古いがなかなか美しい。


 

近くには四角に削られた石が置かれている。

 

江戸時代には洪水対策のために石板を積み上げ、
川に突き出させて川幅を狭める
両岸一対の堤「棒出し」が築かれていた。

これはその「棒出し」に
使われていた石である。

 

 

水門の上流側。



水位の観測施設が今も残る。

現在は水晶式観測機が使われているが、
なるほど昔は目視だった訳か。



水門の橋を渡る。



江戸川の下流側。



こちら側の上流の先には

利根川と江戸川との分岐地点がある。



水門の橋の先にあるのが
「関宿閘門(こうもん)」である。





閘門とは船が水位の高低差の大きい
河川や運河を通る時に、
上流と下流の両側の水門を閉じて
中の水位を調整してから
船を通す施設のことをいう。

 

こちらは上流側。

 





そしてこちらが下流側。

 


 

この閘門式で有名なのが
パナマ運河である。



ここに水門と閘門が造られた目的は
江戸川の洪水対策に他ならない。



江戸川の水流をコントロールするために
水門が造られたが、
まだ当時の水上輸送の役割は大きく
水門のために船が通れなくなるのは困る。

 

そこでこの閘門が設置された。

閘門は幅10メートル。

上流と下流のゲートの間隔は
およそ100メートル。

水位を調整する時間は
30分以上かかったといわれる。

しかし当時はかなり先進的な
土木事業だったことだろう。

 

やがて鉄道と陸上輸送が急速に発達し、
閘門はまもなくその役割を終えることとなった。

そいうえばこんな歌がある。

 ぼくは今、地平線に立っている
 ここには古い水門がひとつあって
 それが夜が昼に
 流れ込むのをせき止めている
 だけどもう少しして日が沈み
 夜の量が今よりふえたら
 水門はもうそれ以上
 夜をせき止めておくことは出来ないだろう

 ぼくは今、地平線に立っている
 日没にひとりの男がやって来て
 長い弦を夕日に垂らしたまま
 バイオリンを弾き始める
 その美しい音につられて
 夕日の輝く水たまりの中から
 今はもういないといわれている
 幻の魚が何匹も釣れるのさ

 ぼくは今、地平線に立っている
 ほら、あの古い水門ときたら
 まるで船の操舵室のようじゃないか
 どれどれ僕が操舵手になって
 この巨大な船を動かしてやろう
 いやなものも素敵なものも
 なにもかも全てこの船に乗せて
 日暮れに向かって船出しよう

 ぼくは今、地平線に立っている
 太陽はもうとっくに消えてしまった
 この暗闇の中で今度光に出会ったら
 僕はそいつを自分の鏡にしよう
 長い長い時間は男を船乗りにする
 ほら、港で待つ恋人の姿が見えるだろう
 水門はまたしてもきのうに取り残されたけど
 もうあしたをせき止める作業を始めている

            (「水門」友部正人)

 

そろそろ行こうか。

 

ここにマムシがいるって、

マジっすか?

 



ボクらは「のだのだ探検隊」

まだまだ行くぞ♪