私には、週に一度
楽しみにしていることがある。
それは、お風呂。
うちから車で40分くらいの場所にある、
知る人ぞ知る風のお風呂屋さん。
まあ、そうは言っても。
地元のテレビ番組で
紹介されたこともあるらしいが。
建物は古いし、
綺麗とは言い難いが。
そんなことは、全く気にならない。
古くて綺麗じゃないのは
私も同じだ。
何を気取る必要があるだろう。
このお風呂。
まず、湯の華が豊富。
それに加えて、
お風呂いっぱいに
漂う硫黄の香り。
さらさらした性質とは異なり、
少し粘り気があって、
肌に程よくまとわりつくお湯。
私が幼かった頃の
地元の温泉そのものだ。
「ああ。そうだ。こうだった。
これが私の知ってる温泉だ」
初めてこのお湯に浸かったときには、
懐かしさがこみ上げ、子供の頃を思い出して
思わず涙が出た。
観光用に美しく整備された地元の総湯では、
残念ながら、もう味わうことのできない
あの頃のお湯が、毎週私を迎えてくれる。
本当に有難い。
そして、なにより。
このお風呂。
空いている。
いつも平日の午前中に行くのだが、
大抵の場合、客は私一人なのだ。
こんな贅沢があろうか。
ちゃぽちゃぽと、子供のように
音を立てながら足を伸ばし。
凝った肩を揉み解し。
うつ伏せになって、
思い切り腰を伸ばし。
温まったら、湯船の淵に座って
体を冷ましながら、
色んなことに想いを巡らせる。
今の私には、
掛け替えのない時間だ。
それが、前回は先週の金曜日。
クリスマス・イヴだった。
いつものように温まり、
体もすっきりして帰宅後。
郵便受けを覗いてみたら、
11月に受けた健康診断の
結果が届いていた。
ん...?
封筒が妙に分厚くないか...?
なんだか嫌な予感がする。
結果を知りたいけど、でも。
知るのが怖い。
すぐに封筒を開けたいと
逸る気持ちと、
「こんなときこそ、落ち着かなければ」
こんな気持ちが
物凄い速さで交差する。
心臓の鼓動が高鳴って、
体中に響く。
とにかく。
逃げて回るわけにはいかない。
居間へ入り、カッターで封を切り、
恐る恐る開けてみる。
要精検
マンモグラフィーの結果だった。
瞬時に、頭の中がショートした。
お風呂で温まった体が
たちまち冷えていく。
いやな熱を帯びた緊張と恐怖が
体のどこからともなく湧き上がり、
じんわり、ちりちりと両方の肩に達すると、
今度はひんやりと左右に広がって下り、
両手の指先へと抜けて行った。
嘘...
健康診断の後、
再検査を促されるのは
初めての経験だった。
モノクロの結果票を
まじまじと眺めた。
表も裏も。
何かの間違いじゃないのか...
ショックだが、
呆然とばかりはしていられない。
同封されていたピンクの用紙には、
再検査を受けることのできる病院の
電話番号が書いてあった。
私は子供たちの
母ちゃんなんだから...
我に返らねばならない。
電話をかけて、
検査予約を入れた。
電話に出てくれた看護師さんの
優しい口調が、なんだか胸に
切なく刺さっては沁みる。
「もしかして、同情されなければ
ならないような状況なんだろうか...」
極度の疑心暗鬼に襲われる。
ただ単に、親切な看護師さんなんだと
考えられないほど、切羽詰まっていた。
予約は週明けの月曜日。
午前9時30分に決まった。
「ただいまー」
できる限り、元気に
返事をしなければならない。
「お帰りー」
子供たちには、言えない。
いや。
誰にも言えなかった。
まだ再検査前なのだ。
はっきりとした結果も
出ていない。
この状況で、周りを
巻き込むわけにはいかない。
ただ、同時に。
この不安を誰かに吐露できたら
どんなにいいだろう。
どれほど楽になるだろう。
心細くて、泣きたくなるほど
こう思ったことも事実だ。
夕飯後。
茶碗を洗っている私の背中越しに、
動画を観ながら笑う次男の声が聞こえる。
子供たちが、無邪気に話す声。
子供たちが、屈託なく笑う顔。
これから先。
私は、この子たちの生活を
守ってあげられるんだろうか...
ちゃんと成長を
見届けられるんだろうか...
胸がキュッとなって、
涙が出そうになる。
もし、この状況が。
子供たちが独り立ちした後、あるいは、
もうそれ目前という場面でのことなら、
それほど苦しくはなかっただろう。
子供たちが、それぞれに学校を卒業して、
それぞれの人生を歩み始めたら、
その後の私の人生は、
余生だと思っているから。
だから。
長男は、もういい。
来春、大学を卒業する予定で、
その後の身の振り方も決まっている。
私がいなくても、もう困らない。
まあ、時折。
不便なことはあるかもしれないが。
でも、4月にそれぞれ中3、中1になる
次男と娘には、これから先、
まだ10年くらいは私が必要だと思う。
もし、末っ子である娘が大学に行くとすれば、
あと12年くらいだろうか。
その後、どうなっても構わないという日まで、
あと12余年は必要なのだ。
きっと大丈夫。
こう思う次の瞬間。
まだ顔を見たこともない医者が、
聞いたこともない声で告げる
聞きたくもない言葉が、
頭の中で勝手に
こだまし始めたりもする。
週末中。
生きた心地がしなかった。
布団の中で、うとうとと寝返りを
打ちながら、神様に祈る。
熟睡は、できそうもない。
コロナ禍であっても、
世の中はクリスマス。
我が家でも、
ケーキを注文してあった。
真っ赤な苺がいくつも乗った
真っ白なデコレーションケーキ。
今年は、私がろうそくを
吹き消すことになった。
息を吸い込み。
願いを込めて。
思い切り。
もちろん。
願いは、ただひとつ。