もう。
待ったなしだ。
あの晩。
ICUで先生の笑顔を見た
私の頭の中には、
こんな考えが渦巻いて
離れなかった。
というより。
今となっては。
取りつかれていたと
言うべきか。
ベッドでにっこり笑った後も、
先生の容態が良くなる兆しは
見られない。
どうしてなんだろう。
先生は、あんなに
はっきり笑ってくれたのに...
焦りが募る。
居ても立っても
居られない。
きっと。
何かが
間違っているのだ。
きっと。
このままでは
いけないのだ。
「このあいだの夜、
私に笑いかけてくれたんです。」
休暇を取って日本旅行へ出かけた
若いドクターの代わりに、
師匠の担当になった
ドクターに、こう伝えた。
「あんな笑顔は、初めて見ました。」
話しながら、
私は泣いていた。
30代半ばから40代に
差しかかるくらいの
年齢だろうか。
このドクター。
何だか、とても
話しやすい人だった。
穏やかな雰囲気を
常に醸していて。
こちらに寄り添ってくれそうな。
気持ちを汲んでくれそうな。
同じ目線で、普通に
世間話のできそうな。
そんな感じの人だった。
だからだろう。
「お願いです。鍼を試させてください。」
私は、こう口走っていた。
何かをせずは
いられない。
ただ見ているだけなんて、
もう無理だった。
だって。
私は先生の
弟子なんだから。
やめておきなさい。
今の私なら
こう助言するが。
あの時の私に
届くはずもない。
「OK」
ドクターは、何かを
思い切るかのような口調で、
首を縦に振った。
ある人によると。
失敗とは。
物事の結果について、
「もし○○していたら...」
「あの時、こうしていたら...」
などと、
仮想的な世界と、自分の現在を
無理に比べることだという。
どんな結果であれ、
「今よりうまくいっていた場合」
を想定すれば、
何でも「失敗」であると。
そういう考え方をすれば、
人生は失敗の繰り返しでしかないと。
うん。
まあ。
そうよね...
更に曰く。
自分の行動のすべては、
自分が持ち得る情報の中で
ベストだと思うことを
選択したもの。
結果として失敗に見えたとしても、
それ以上の選択が
あり得なかったのだから
その結果も成功である。
なるほどね...
つまり。
何かを失敗だったと思うどうかは、
自分の胸三寸にあると。
心の持ちようだと。
そういうことだろうか。
それならば。
今もこぼれる
この涙はなんだろう。
思い返すたびに
閉じる心はなんだろう。
“その結果も成功である”
こう考えることができたら、
どんなに救われるだろう。
縋りつきたいほど、
こう思う。
あれで良かったのだと。
あの時は、ああするしか
なかったのだと。
こう振り返ることができたら。
確かに。
あれが、当時の私の
精一杯だった。
もうこうするしかないと
思い詰めた上での決断だった。
それは間違いない。
でも。
あの経験は、私個人のこととして
完結しているものではない。
それに、私は。
あの夜の先生の笑顔が
本当は何を意味していたのかを
恐らく、知ってしまった。
だから。
くだんの言葉を
自分に重ねることは、
到底できそうもない。
今も苛まれている。
ドクターと話した
その夜。
私は、師匠が横たわる
ベッドを目の前に、
大きく息と声を吐いた。
気合いを入れる。
「先生。鍼、刺しましょうね。」
ああ。
もう書きたくない。
弱気が襲う。
涙が流れる。
逃げ出したい。
でも。
それだけは、
できない。
書かなければ。
それこそ。
「失敗」になって
しまうだろうから。