「エイリアン、故郷に帰る」の巻(32)
私は、先生の体をおもちゃに
してるんじゃないだろうか...
すっかり変わってしまった
師匠の姿を目の当たりにすると、
こう思う。
先生の命を救うためだと、私が決めてきたこと
ひとつひとつの結果が、今の師匠の姿なのだと思う。
「私たちは、そういうことはしないし、嫌いなのよ。」
先生の人工透析を
私が許可したことを知った義姉が、
こう言って怒った時の場面が
繰り返し蘇ってきては、私を襲う。
やっぱり、お義姉さんが
正しかったんじゃないだろうか...
師匠の姿を見るのが辛い。
どんなことをしても
生きていてほしいと思うのは、
私の身勝手なんじゃないだろうか...
申し訳なさでいっぱいになって、
もう何も分からなくなる。
「そんなことをされるくらいなら、死んだ方がましだ。」
もし。
師匠に意識があって、先生自身が治療を
こうきっぱり拒絶するのを聞いたとしたら、
私は一体どうしただろう。
先生の意思を尊重して、ドクターが提案する
どんな治療も断っただろうか...?
恐らく。
最終的には
そうしただろうと思う。
もちろん。
私のことだ。
必死になって、師匠を
説得にかかるだろうが。
少しでも治る可能性があるのなら。
良くなる可能性があるのなら。
それで生きられる可能性があるのなら。
不本意でもやってみましょうと。
ある程度良くなってICUを出たら、
漢方や他の治療法に変えたらいいと。
子供たちを引き合いに出し、
親としての情に訴える作戦にも
出るだろう。
「子供たちをおいて死んでいくんですか? それでも父親ですか?
あとは勝手に生きて行けって言うんですか!?」
宥めて。
賺して。
それでもダメだとなれば、
私はきっとこうやって脅しにかかる。
それでも。
師匠の意思が変わらないとしたら、
私はきっと覚悟を決めただろうと思う。
たとえ。
どんなに悔しくて悲しくて、
あまりに身勝手だと怒り狂って、
いっそ私がこの手で殺してやろうと
思ったとしても。
慎重に時期を選ぶことにはなるだろうが、
子供たちにも、すべてを隠さず話しただろう。
でも。
先生。分かりました。
死んでもいいですよ。
一体、私にこう思えるだろうか...?
その上で。
覚悟を決めて。
師匠に面と向かって、
「先生。分かりました。死んでもいいですよ。」
実際、口に出して
こう言えるだろうか...?
無理。
絶対。
私が言うには、
潔すぎて。
格好良すぎて。
物分かりが良すぎて。
まるで麗しい糞だ。
糞は糞ゆえに糞なのだ。
どんなに見た目を取り繕っても。
この世のすべては陰と陽。
それは言葉も同じこと。
誰かを殺す武器にもなれば、
誰かを生かす糧にもなる。
ただ心の中で唱えているのと、
実際に口に出して言うのとでは、
天と地ほども差がある。
一度、口から発せられた言葉は矢だ。
放たれた相手にも刺さるが、
放った本人にも刺さる。
良くも悪くも。
巡り巡って。
「死んでもいいですよ。」
などという矢を放とうものなら。
先生に届いて刺さる前に、
私に刺さる。
そして。
言葉通り、私の中の何かが死ぬ。
だから。
師匠の意思を尊重したとして。
それが治療の拒絶だったとして。
観念して、私がそれを受け入れたとして。
心の中で理解したとして。
口に出しては言えない。
それだけはできない。
私が師匠に生きていてほしいと
思う気持ちは、幼い子供が
母親を求めるのと同じ理由だ。
理屈じゃない。
どうしても、その本能的な感情を
葬らなければならないとしたら。
どうあっても、往生際の悪さを
引っ込めろと言うのなら。
せめて。
黙ったまま、
不貞腐れさせて欲しい。
こう考えている自分を
見つけると。
先生の意識があっても、なくても。
先生の言葉があっても、なくても。
どっちに転んでも。
やっぱり。
私は、黙って不貞腐れるしか
なかったのかもしれない。
こう思ったりもする。

