桃園空港に到着した後は、
前回と同じように台北に向かう。
台北駅までのバスに乗り、
駅に着いたらタクシーで病院へ。
自宅を出てからずっとこびりついているのは、
自分の心と体、すべてが一気に収縮して
内へと閉じこもっていくような感覚。
外へではなく、自分の中の奥へ奥へと
逃げ込んで行って、ずっとうずくまったまま
隠れていたいと思う、現実からの逃避願望。
でも、自分の他面がそれを許さないし、
実は本心でもない。
一秒でも早く師匠の顔を見たいと
思っている自分が、確かに存在している。
夜更けにICUまで辿り着いたら、
師匠に面会する。
この瞬間が何よりも恐ろしい。
ベッドに近づき、
先生の顔を覗き込む。
2週間も離れていたことを
心の中で強く詫びる。
師匠は敗血症になっていた。
体中に細菌が増殖する感染症に罹った
先生の体は、どこもかしこも
パンパンに膨れ上がっていた。
顔も元の人相が分からないくらいに
膨れ上がっている。
これが紛れもなく
私の夫であり、私の師匠だ。
まるで風船のように
膨らんでしまったこの男が。
確かにショックだった。
それは間違いない。
涙も出た。
それも仕方がない。
師匠と私の間には、
今までの歴史も思い出もある。
どうしても、元気な時の姿と比べて
しまって悲しくも悔しくもなる。
でも、先生は生きている。
ちゃんと生きていてくれたのだ。
何よりもそれが一番重要で、
有難いことだ。
そして。
私が気丈夫でいること。
それが、次に重要なことだ。
翌朝、面会に来たバオメイが
私にこう言った。
「ドクターに、転院させてほしいって言って。
この病院は良くない。
容態に変わりはないって言ってたのに。」
バオメイは怒っていた。
もちろん、私にも
同じような気持ちはあった。
でも、それよりも私は切なかった。
そばにいられなかった間に、
先生の容態が悪くなってしまった。
そうなってしまうまでの過程を
見ていない私には、純粋に怒りを
感じる権利がないように思えた。
もし、私がずっと先生のそばにいられたら、
こうなってしまう前に、先生の変化に
気がつけたかもしれない。
そう考えると、渦を巻くような
口惜しさと後ろめたさが湧き上がる。
「どこの病院へ?」
「○○病院 ○○病院」
バオメイは、メモ用紙にこう書いた。
「本当はこの2つの病院のどっちかが良かったんだけど、
倒れていたのがこの病院の近くだったから、ここに運ばれたのよ。」
私には、台湾の病院事情や
良し悪しは分からない。
「この病院が気に入らないから、転院させてほしい。」
ドクターに面と向かってこう言うのは、
とても気が引けるし、勇気も必要だ。
だからバオメイも、私に
言ってほしいと言うのだろう。
私はすぐに気持ちを固めた。
これは妻である私の役目だ。
愚図愚図している暇はない。
「ドクター。転院させてください。」
担当医に、こう切り出した。
「どうして?」
「容態に変わりはないっていうお話だったのに、この状態だからです。」
「それはできません。」
「どうしてですか?」
「今、動かすのは危険ですよ。」
「でも、ここにいても危険な状態じゃないですか。」
「他の病院に移すというのは無理なんです。」
「だから、どうしてですか?」
ドクターは云々と続ける。
これでは埒が明かない。
「義妹は言ってましたよ?
ドクターは、容態に何の変わりもないって言ってたって。
その結果がこれなんですか? おかしいんじゃないんですか?
何の変わりもない人間が、どうして風船みたいに膨らんでるんですか?」
師匠の命が懸かっている。
絶対に引くわけにはいかない。
「私たちには、病院を選ぶ権利があります。
違いますか? 転院させてください。」
半ば喧嘩腰、いや、今思い出してみても、
あれは全くの喧嘩腰だった。
「分かりました。やってみます。」
「お願いします。」
もう誰に何の遠慮がいるものか。
今の師匠にとって何が良いのかを、
ぐだぐだ迷っている時間はない。
ドクターの言うことを、
何でもはいはい聞いてられるか。
先生のためにできることは
何でもやるのだ。
義姉が煎じた薬草を飲ませたいと
ドクターに申し出た。
ドクターも、今回は
ダメだと言わなかった。
義姉とバオメイ、私の3人で
迪化街に行って薬草を買った。
その後、バオメイと別れた義姉と私は、
私が宿泊していたホテルの、共同で使える
キッチンで、その薬草を煎じた。
煎じ終えた薬草を容器に移して
病院に持って行こうとした、
ちょうどその時。
ホテルの人から、私に電話が
かかってきていると告げられた。
言葉のよく分からない私の代わりに、
義姉が出てくれた。
「すぐに病院に行ってほしいって。」
バオメイからの電話だった。

