「エイリアン、故郷に帰る」の巻(18)
ある晴れた日。
午前の面会の後、拝拝に行こうと思い立ち、
台北駅から地下鉄に乗った。
目的地は行天宮。
龍山寺と同じく、十数年前に
初めて台湾を訪れた時に
師匠に連れてきてもらった場所だ。
あの頃は、まだ行天宮の近くに
地下鉄の駅がなく、師匠と二人で
バスに揺られて行った記憶がある。
初めて経験する妊娠と悪阻。
毎日変わる体調と、
昼下がりに襲ってくる睡魔。
これに夏の暑さが加わって、大量に汗をかくものだから、
とにかく体がしんどかったが、お腹が目立ってきていた
私に、台湾の人たちは本当に親切にしてくれた。
バスに乗ると、私のお腹に
気づいた人が即、席を譲ってくれる。
地下鉄に乗ると、私のお腹に気づいた人が、
遠くの席にいたにも関わらず、手招きをして、
ここに座れと席を譲ってくれた。
一度や二度ではない。
こんなことが
毎度のようにあったのだ。
若い人から、おじちゃんおばちゃん世代の人まで、
それが当たり前だと言わんばかりに、
とても自然に席を譲ってくれた。
驚きと感激。
あの時のことは、
今でも感謝している。
台湾では、公共の乗り物に、妊婦や小さな子供連れ、
お年寄りがいると、必ず誰かが席を譲る。
台湾の人たちの、この心意気。
あの時のことを思い出す度に、
私の心はいつも暖かくなる。
行天宮駅で降りて駅の出口を出ると、
明るい日差しに目が眩む。
この頃の私は、その日の天気に合わせて、
気持ちが晴れたり曇ったりすることが
段々となくなっていた。
輸血。
脊髄穿刺。
人工透析。
師匠の治療内容がひとつひとつ
増えていく度に、心も鎧を着けていく。
あの状況下で、毎日の天気にまで
いちいち気持ちを左右されていては
とても自分を保ってはいられないことを、
私のどこかが知っていたのだろう。
このままでは無防備すぎて、数々の不安に
容赦なく突き刺されてしまうと思った
私の心は、きっと武装することに決めたのだ。
人間の内にあるメカニズムとは、
なんとも有り難く、健気で、
また、切ないなものだなと、
あの時を振り返ってみて思う。
まるで、愛する人を守ろうとする
戦士のようだ。
何の見返りも求めず。
そして、私の中にいる戦士は、
果敢にも、何とかして私の心と体を
守ろうと、必死で頑張ってくれた。
駅から行天宮までは、
歩いてほんの数分だった。
拝拝の場所に、ここを選んだのには理由がある。
師匠と参拝に来た際、最後に「收驚」という、
日本でいえばお祓いのようなことを
やってもらったのだが、これに効果があったからだ。
青い法衣を着て、線香を持った
おばちゃんがやってくれるのだが、
当時、私が師匠から聞いた説明によると、
体の調子の良くないところを話して
そのおばちゃんに「收驚」してもらうと良くなるという。
ほんとかなー。
ただの気休めなんじゃ...
こんな風にしか思っていなかったが。
でも、まあ。
せっかく来たんだし。
「悪阻がつらいので、それを治してもらいたいです。」
師匠に通訳してもらって、
おばちゃんに收驚してもらった。
その時は何も感じなかったが、
その後、行天宮を出てしばらくして、
師匠にこう訊かれた時に気がついた。
「調子はどう? 悪阻は?」
「ああ! そう言えば、良くなってる!」
いつもどこか不調だったのに、
随分とすっきりしているじゃないか。
これには本当に驚いた。
恐るべし、收驚...!
おばちゃん。
疑ったりして、ごめんなさい。
私はあんなに不信心だったのに、
治してくれて、本当にありがとうございました。
ちなみに。
道教では、体調不良は、身の回りのショックな出来事や、
何かに驚いた拍子に魂魄が体から抜け出てしまうのが
原因だと考えるそうで、その魂魄を体に戻すというのが
「收驚」という儀式だそうだ。
私の悪阻も、魂魄の脱走が
原因だったんだろうか...?
まあ。確かに。
妊娠が分かった時には、
死ぬほど驚いたな...。
行天宮のご本尊は「關聖帝君」という
商売の神様だそうだが。
驚くほど効果があった
收驚をやっている場所だ。
先生本人は連れて来られないが、
代理の人間でも、お祈りすれば
きっと病状回復にも効果があるに違いない。
あの時の私に、自分が信じたいことを
信じる以外に何ができただろう。
拝拝した後、お守りをもらって
病院に戻った。
午後の面会の時、そのお守りを
師匠の枕の下に置いた。
義妹のスーイエンがもらってきてくれた
お水を、先生の頭や体に振りかけた。
人型に切った紙を、先生の体に這わせた。
以前テレビで観た番組の中。
ある夫婦が、難病で入院している子供を治したい一心で、
人型に切り抜いた紙を子供の体に這わせ、
その紙に病気を吸い取ってもらうのだと念じていると、
ある日、子供の病気が治ったというのがあったのだ。
「この人形が悪いことろを吸い取ってくれる...
先生は絶対に良くなる...」
ぶつぶつとこう呟きながら、師匠の体に紙を
這わせる私を、看護師さんは怪訝な顔で見ていた。
ごもっとも。
でも、そんなことは
これっぽちも気にならない。
それよりも、私が気になっていたのは他のことだ。
「信じる」とは、一体何だろう...?
ある本によると、「信じる」とは、
何かを真実として受け入れることだという。
自分の身の上に、ある事が起こることを
期待する場合には、信念と自分の間には、
まるで相思相愛のカップルような高揚感がある。
でも、自分以外の人の身の上に、
ある事が起こって欲しいと期待する場合には、
信念と自分の間には、まるで片思いのような切なさがある。
その人が何を望んでいるのかは、
実のところ、その人にしか分からないし、
その人が何を信じているかも、
その人にしか分からないからだ。
人間が何かを考えると、その思考から
波動が生じ、同じような波動を発してるものを
引き寄せるという。
そして、その波動は、複数の人が
同じことを考えることで、より大きくなり、
願いを引き寄せる力が強くなるという。
これが、真実だとして。
だからこそ、私は先生の回復を祈り、
信じているのと同時に、
先生自身が、自分の未来をどんなふうに
信じているのかが、とても気がかりだった。
先生と私は、ちゃんと同じ未来を
信じているんだろうか...?
私が信じたいことは、
私の独りよがりなんじゃないだろうか...?
何に対しても確信が持てない。
かと言って、先生と会話して
確かめることも叶わない。
陰陽様々な想念が交差しては、
忙しなく通り過ぎて行く。

