カナダ留学記ーHarmony Log

カナダ留学記ーHarmony Log

バンクーバー・ブリティッシュコロンビア大学の商学部に進学したビジネス生徒のブログ。学生生活で感じたこと、経験したことが中心。

毎週土曜日の夜(日本時間の日曜日の午後)は必ず更新する予定だが、それ以外にも思いついた時に書きたいことを書くかもしれない。

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自慢じゃないが、私は子供が苦手にもかかわらず子供の扱いはかなりうまいと自負している。

比べる基準が特にないため完全な自己評価にすぎないが、少なくとも子供を不機嫌にさせず癇癪を起させず、私のいうことを聞いてもらうことができる。成功率は感覚的に70~80%なので、大抵はいうことを聞いてくれるのである。

たとえば今のバイト先に、店長の息子がいる。自分の思うとおりにならないと大声を上げて癇癪を起してしまう元気な4歳の男の子だが、私がアルバイト店員として働き始めてからかなりの高確率でこの癇癪を未然に防ぐことができている。しかも、私がまだ働き始めて間もない頃は些細なことで癇癪を起していたのだが、私が接するようになって数か月たった今では落ち着きが出てきた。

もちろん落ち着きが出てきた理由として、4歳という年齢では数か月でグンと成長することが当たり前だろうということや、以前より時間に余裕のできた奥さんが遊びに連れていって有り余る体力を発散させているのもあるだろう。しかし、私に対してのその男の子のしゃべり方や態度が明らかに成長している。自分をひいきしている可能性を引いたとしても、ほかのアルバイトに対しての子供っぽい態度とは少し違うのである。

具体的に言えば、私に対してはちゃんと癇癪を起す前に何が欲しいのか、何が気に食わないのか精一杯説明しようとしてくれる。掃除用具でいたずらするときも、以前なら勝手に振り回して遊んでいたのが、今はつたないながらも「お手伝い」の範囲のいたずらである。たとえば以前は私がテーブルを拭くスプレーを使っていると、それを奪ってそこら中にまき散らしていたのが、私の様子を見ながらテーブルの上にしゅっしゅっとしてくれるようになった。また、以前なら私がほうきで床をはいていると集めたごみを蹴散らしていたものだが、ごみを塵取りのほうへ蹴ってくれるようになった。ご機嫌な時は塵取りを押さえて、私の掃除の手伝いをしてくれる。

なにが数週間で彼をそこまで変えたのか。

前述した理由のほかに、私は自分が彼に接する際の態度が少なからず貢献していると感じている。

たとえば、彼の感情が高ぶるのを感じたとしよう。その時に、私は必ずその感情をいったん肯定するよう心掛けている。

数日前、いつも彼と仲良くしてくれるお客様が珍しく来店されなかったことがあった。そろそろお店を閉店しようという時、彼は普段よりも大きめの声で何かを叫びながら、お店の外に駆け出していってしまった。もちろん子供一人では危険なので、私も後を追いかけていった。その時、「外に出ちゃだめだよ。中に戻りなさい。」ということもできたが、私はあえて制止の言葉は口にせず、「〇〇さん、今日来なくて悲しいね。」と言った。

その時の彼の行動の変化は、数日たった今でもはっきりと印象に残っている。

発散させられない感情を持て余して走り回っていた彼は私の言葉を聞くと、とても悲しそうな顔で小さく「…うん。」とつぶやいた。そして「中にもどろっか。」と私が一呼吸おいてからドアを開いて声をかけると、無言ながらも素直に店内に戻った。

果たして私がそこで頭ごなしに彼の行動を否定していたとして、同じようにすんなりと私の言葉を受け入れられただろうか。私は答えは「否」だろうと思う。

さらに、私は子供に対してめったに使わない言葉がある。

それは、「ダメ」という言葉だ。

どこで読んだのかもう忘れてしまったが、子供というのは7歳になるまでに「ダメ」という言葉を「いいよ」という言葉の二倍以上聞くそうだ。それが潜在意識に刷り込まれ、自己肯定感が低く失敗を恐れる子供が出来上がるらしい。

私は自分がいかにダメ出しを恐れているか、よーく知っている。だから、人には、ましてや純粋な子供には、理由もなしに「ダメ」という言葉を使いたくないのだ。

たとえば接客中、その男の子が遊んでほしいとアピールする。この間はキッチンの奥に段ボールで秘密基地を作っている最中で、それをセロファンテープで補強してほしいというお願いだった。

もちろんその願いをその場で「ダメ」ということは簡単だ。私はアルバイト店員で、お客様が第一である。しかし、なぜダメなのかという説明なしに納得する人間などいない。だから、私はしっかりと目線を合わせながら、「お客様にお料理を出してくるから、そのあとすぐにやってあげるね。」といった。4歳にもなれば2,3分は待てるものだ。すんなりとうなずいてくれた。

訪れる確証のない未来ほどイライラするものはない。「今」は無理でも「いつできるか」さえちゃんと説明すれば、子供はなんとなくわかってくれるものだ。そして、一番大切なのはその約束を破らないことである。逆に言えば、できない約束は子供と結んではならない。いくら精算機が面白いからといって、それで遊んでもらっては困る。「後でなら遊んでいいよ」というものでもない。だから、そういう時こそ「ダメ」と伝え、さらに「なぜダメなのか」というのを簡素に伝えることを心掛けている。

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さて、ここまで子供の扱い方について語ってきたけれど、これほど長く語ったにもかかわらず今日の本題は別のところにある。

それは。

「上手な子供の扱い方」はそっくりそのまま「上手な自分の扱い方」と一緒、ということだ。

感情を押さえつける前にいったんそれを肯定すると、自然と心が少し楽になる。
自分に対して常に「いいよ」という肯定の姿勢でいると、自然と自信が付き落ち着きが出る。
自分が立てた約束は破らない。そして、守れない約束はしない。自信を失うのを防ぐためである。

つまるところ、これらは(それが他人だろうが自分だろうが)信頼を築き上げていく方法なのだ。

インナーチャイルドとはよく言ったもので、人間の本質は子供のころからさほど変わらないのだろうと思う。


日々「やらなければならない」ことに忙殺され、自分を見失いがちな現代に生きているからこそ、子供ごころを思い出すことが大切なのではないか。そしてそれは決して幼稚な言動をとるということでなく、自分の純粋な心が納得する言動を選択するということに違いないだろうと、ここ数か月の経験で感じた。
"I guess you don't want money, then."
「金が要らないってことだな。」

意外と突き刺さる言葉である。ビジネス学部専攻の私に投げかけるにしては、違う意味で皮肉だが。


私は今、日本食レストランで働いている。家族経営の小さなお店で、店内には1番から8番までの二人席のみだ。毎日ランチとディナーの時間を、キッチンスタッフが一人、お寿司を握る大将が一人、そしてウェイトレスの私の三人で回している。

先週の土曜日は、過去最高と言っていいほどお店が混み合った。それこそお客様の入店をお断りしなければならないほど混んでいた。何組ものお客様をお断りしたか覚えていないほどである。大盛況だった。

楽しみに来てくださったお客様をお断りするのは非常に精神的にきついものがある。こちらとしては、人手と席が許すならぜひお食事を楽しんでいただきたいからだ。

そんな中、若いカップルがやってきた。第一印象は、ファストフードが似合いそうな感じ。

案の定席がなく、お断りせざるを終えなかった。その時、男性側に言われたのが冒頭の言葉である。

咄嗟にイラッとはしたし、「金を落とすためだけに来る客なんてこちらこそお断りだ!」というのが正直なところ本音ではあったが、そこはいつも通りの丁寧さで対応である。そもそも私は自分の感情のコントロールについてはかなり得意である。

嫌味を投げかけただけで声を荒げることもなくお帰りいただけたのは、お客様がきちんと私の言葉を理解してくださったことの表れではあるが、私の気分はすこぶる悪かった。

しかし悶々としながらほかのお客様の給仕をしているうちに、ふとあることに気が付いたのだ。

「先ほどのお客様は、思わず嫌味を言っちゃうくらい、つまり自分の感情をコントロールできないくらい、私たちのレストランで食事するのを楽しみにしてくださっていたのか。」

そんな風に思ったのだ。

そう考えただけで嫌味な男性がとたんに可愛く思えてきた。楽しみにしていたご飯が食べられなくて拗ねて八つ当たりしちゃうなんて!正直言って店員に八つ当たりするような人と付き合いたいかといわれると私のタイプの異性からは136億光年離れているが(笑)、きっとお相手の女性はそんな子供っぽいところも含めて好きになったのだろう。

おっと、話はそれたが。

今回学んだのは、「言葉の裏を考えること」。そしてその裏にある「感情を読むこと」。

特に感情がにじみでるほどの強い言葉は、どうして理性的になれなかったのかを冷静に分析すると、意外と納得のいく理由があることが分かるかもしれない。相手が自分を攻撃していると思って反撃する前に、いったん止まって同じ土俵に立たないことが大事だ。

めったにそんな攻撃的な人に会わないので今回はびっくりしたが、これもいい経験だと思って受け止めておこうと思った。
今日の文章は難産だったが、どうしても残しておきたかった。

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先日友人が私を訪ねてきてくれた。久々に会えたこともありとても楽しくて、一人ではなかなかいかないような場所に二人で足を運ぶこともできた。非常に有意義な時間だったと感じた。

ただいろんな場所に遊びに行けたというだけでなく、精神的にも有意義な時間だったと感じた。長年存在していた私の人付き合いの癖がはっきりとわかり、解消する手掛かりが見つかったからだ。

俗にいう「豆腐メンタル」だと自負している私にとって、どれほど仲の良い親友であろうと少なからず精神的に削られてしまうことが当たり前だった。むしろ、大切にしたい関係だからこそ割り切れず、相手の一挙一動が気になってしまうのだ。相手が大事だからこそ生まれる「持て成さなければ」という気持ちは、時として私を追い詰めた。そして余計にたちが悪いのは、これはすべて私自身の問題であって、相手にはまったく非がないところである。ほかの誰のせいでもない、私の問題なのだ。

今回、友人を見送った後なんとなく落ち着かずモヤモヤした気分に襲われた私は、少し時間をかけて日記に思考を書き出してみた。すると、非常にわかりやすく問題が浮かび上がった。

私は相手と同調しようとしすぎるのである。

それはただ単に相手の気持ちに寄り添うというような生易しいレベルではなかった。私は、あろうことかその相手になりきる勢いで同調しようとしていたのだ。

例えば、相手の趣味の話を聞くとき、私はそれを「好きにならなければならない」という強迫観念があった。例えば食事の好みも相手と同じものを「好きにならなければならない」という意識に駆り立てられた。この「好きにならなければ」という思考と、「でもそれは『私』じゃないんだけどな」という思考の対立がどれほど苦しいかというのは筆舌に尽くしがたい。それでも言葉にしようとするならば、ありきたりになるが「精神を真っ二つに引き裂かれる心の痛み」とでもするしかないだろう。とにかく、この状態で長くいることはできないことは明らかだ。

さらに掘り下げていくと、この「好きにならなければ」という強迫観念の根底には、ゆがんだロジックが埋まっていた。

相手が好きなものを否定することは、すなわち相手を否定することに直結する。よって相手を否定したいわけではない私は、相手が好きなものを好きになる必要がある―。

ちなみにここでいう「否定」とは「嫌い」「好みに合わない」という感情に近いものととらえている。

書き出してみてまず疑問に思ったのが、「好み」と「人間」が一対一で直結してしまっていることだ。通常、人は数多くの好みを持つ。相手の一部が私と合わなくても、別の好みで息が合うものだ。そもそも完全に好みが合わない人間とは親友になれるとは思わない。よって、数個の相手の好みが自分の好みに合わなくても、その相手の全否定にはなりえないし、相手が嫌いということにはならないのだ。

二つ目のゆがみは、私がこの間違ったロジックを人に押し付けていることである。つまり、私が一部の否定を全否定ととらえているからと言って、相手が同じように私の一部の好みの合致(もしくは不一致)で私を判断しているとは限らない、ということを完全に見落としていたということだ。この間違った押し付け、そして「大事にしたい人間に嫌われたくない」という本能的な恐怖のために、私はほんの少しも嫌われないよう一挙一動に気を使い、相手の不興を買わないように細心の注意を払うのだ。(考えただけで疲れるし、人に会いたくなくなる。)

今回この二つのゆがみに気が付き日記を書き進めるうちに、私は引き裂かれた心を一つに戻す自分の本心に気が付いた。それは、たった一文にまとめられる。

「私はあなたが語ることに対してあなたほど情熱をかけられるとは思わないが、それが好きだと語るあなたは輝いて見えるし、そういうあなたを好いている。」

どんなに相手の話す内容に興味がなくても、それを語る相手には全力で興味があるし、面白いと思うのだ。別に相手と同じものを好きにならなくても、もとから相手が好きなのだから(そうじゃなきゃ友人にはなっていない)それでいいじゃないか。

長年あったモヤモヤに決着がつき、今はすがすがしい気分である。
バンクーバーは夏に向かっている。



ここ数週間、正確に言えば三月の中旬から、軽いうつ状態になっていたように思う。

「~ように思う」というのは別に正式にうつと定義されるようなものではなかったからだ。
ちょっと大げさに言えば、いつもよりちょっと無気力で、いつもより朝が来るのが苦痛で、朝が来てほしくなくて寝るのが嫌になって(でも7時間はぐっすり寝てたけれど)、泣いても気分が晴れなくて、生きているのが「ちょっと苦痛」から「そこそこ苦痛」になったくらい。あ、課題の提出を二回忘れたのは流石にショックだったけど。

美味しいものは相変わらず美味しかったし、モクレンや桜は相変わらずきれいだった。

今はだいぶ低空飛行から脱したから、布団はぬくぬく楽しいし、こうやって久々に何かブログに書いてみようかなと思える。

人類の25%が、一生の間に一度はうつを経験するらしい。百人いたら二十五人、私の通う大学は五万人規模だから、約12500人が一度はうつを経験するわけだ。ちなみに統計学的には1%以下なら「異常」である。

まあ、つまり。

普通だ。

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精神的に不安定になりやすい人の特徴として、「頑張りすぎる」ということが良くあげられる。今回の経験を踏まえてちょっと考察してみたい。

「頑張るのをやめればいいじゃん」という、至極まともな意見もあるだろうが、そうじゃないのだ。

「頑張っている」「力んでいる」という感覚が一切ないのだ。本当に普通に、当たり前のように生活しているのだ。

まあ、ちょこちょこと小さな「傾向」みたいなものはある。「中間テストいい点とれなかったらどうしよう」とか、「この会話で下手なこと言って相手に嫌われたらどうしよう」とか、そういう誰にでもある悩みだ。

しかし、これに白黒つけたくなったり、連想ゲームが始まると不安が倍増する。

例えば、
「テストで80点以下=悪い点=努力しない私=価値がない人間」
「相手が会話でつまらなさそう=私が何かまずいことを言った=嫌われる=価値がない人間」

というふうにどんどん負のスパイラルへ。

ここでは三つの思考回路が特徴的だ。

1.一つの結果が別のことの結果へと頭の中で自動的に結びついていること。
2.世の中に「良い・悪い」の二択しか存在しないこと。
3.全て自分のせいにするにもかかわらず、自己価値の軸を自分の外に置いていること。

心理学的にはまだいくつかあるのだが、とりあえず私が感じた主な傾向をまとめてみた。

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予想した、自分の思い通りの結果にならない怒り。
白黒つけたいのに、世の中は簡単に「正・悪」に分けられないことへの怒り。
周囲にあると感じる一定基準に達しない自分への怒り。

こうしたものが結局自分への攻撃に変わって、心をすり減らしていく。

ただ、これだけじゃうつにはならないと思う。テンションの浮き沈みは在れど、ただの気分屋さんで終わるだけだと思うのだ。

決定打は、「この状態が未来永劫続くという風に感じること」だと思う。

私の場合は「過去を思い出しても自己価値が下がる」「未来を考えても不安」という二つのことに板挟みになって、生きていることがそこそこ苦痛になった。(「そこそこ」であるところが私らしいとは思うけれど。)

「昨日もつらかった、どうせ明日もつらい」

これが、いかに生きる気力を奪うか!

どうせ明日も明後日もそのさきもずっとつらいならもう全部終わらせたい、という思考に至るのも無理はないし、痛いほど理解できる。そして、年間三万人という数字は現実にあるのだ。

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視点を切り替えて、建設的なことを考えてみよう。

今回私の精神状態がこれ以上悪化しなかった理由は何だろう。

1.自分がもともと不安定になるかもしれないということを知っていた。

実は昨年の春も似たような時期に精神的にそわそわして落ち着かない時期があった。それ以来、「これとこれが重なるとクラッシュする」というような自分のクセを、ある程度つかんでいたように思う。


2.「あ、これあかんヤツや」と思った時、とりあえず近くの(私の場合、大学の)カウンセリングサービスを頼った。

家族に相談するにも何千キロと距離が離れているし、時差もあるので現実的ではない。何より私の通う大学は世界的に心理学部が強いことが有名だった。ここなら安心して相談できると思った。案の定、CBT(行動認知療法)という、きわめて論理的で有効的な方法で思考回路のクセを少しずつ治してもらうことができた。それはさながら「思考の整体」のようだった…。


3.切実に「楽になりたい」と願った。

好き好んで苦しい人生を送りたい人間など存在しないと思う。少なくとも、私は人生を苦しいものと定義する現状が嫌いだったし、かといって全部終わりにして逃げることだけは絶対に嫌だった。結局いろんな葛藤の末、「人生は苦しみを耐え抜くもの」という持論はさほど変化しなかったが、今回新たに「楽になりたい」という願望は自分に許すことにした。そこから、「楽になるにはどうすればいい?」ということを考え始めたのだ。

問いを投げかければ問いに合わせた答えがでる。「なんで私はダメなんだろう」という問いにはダメな理由が返ってくるし、「なんで私はデキる人間なんだろう」と考えればそれ相応の理由が返ってくる。思考回路とはそういうものだと思う。


まとめると、「自分の思考回路のクセを知って」「自分だけじゃどうしようもないことを理解して専門家を頼り」「切実に現状を良くしたいと願うこと」で、状況はかなり良くなる。

少なくとも、「なんで太陽は毎日昇っちゃうんだッ!」と朝日を恨んでいた六週間前と、「明日はどんな新しい料理を作ってみようかな」と考えている今この時では、精神的な余裕に大きな差があると言える。
UBCキャンパスで、中絶反対運動をやっていた。

こういう活動は珍しいことじゃない。動物実験反対運動もやっていたし、女性軽視問題も取り上げていたことがあったし、最近ではトランスジェンダーの人を応援する虹色の旗がはためいていた。(だれかが悪意を持ってこの旗を燃やし、全国ニュースに掲載されるという恥ずかしい事件もあったけれど。)

で、ふとこの中絶ということについて考えてみたくなった。

私は、中絶するかしないかは個人の判断、個人の自由であるべきだと固く信じている。

ここまで読んですでに複雑な気分になっている人はすぐにこのページを離れてほしい。今日書くことは賛否両論あるし、いろんな感情が絡む問題でもあるから、読みたくない人はむしろ飛ばしてほしい。行間もあけておく。

私も書いていてモヤモヤする話題だから、うまく言葉にできないかもしれない。それでも今思ったことを書き留めておきたかったからここに書く。













さて、上から続けて。

中絶は殺人と同じ、人を殺しているも同然だから法律で禁止すべきだ!というのが反対派の主な論点であるらしい。確かにこの論は間違ってはいないだろう。どこまで細胞が分裂すれば「人間」と定義できるのか、という論で戦えば、受精卵から人間であると断言するのが一番簡単だ。

だが、反対派は本当に、真剣に考えて想像してみてほしい。

望まれずに生まれてきた子供が、どれほどの精神的な傷を負うと思う?実の親に「生まれてきてほしくなかった」って思われて、それでも生きるんだ。私なら耐えられない。

中絶を望む人がいるのは「子供を育てられないから」「育てたくないから」。親の経済的な理由もあるだろうし、精神的な理由もあるだろう。とにかく中絶を望む人にとって、子供を育てることは「難しい」と判断したことなのだ。

そんな状況であるにもかかわらず、子供を産むことを強制する。その苦難を乗り越えられるようなサポートが身近にある親子ならいい。でもそうじゃない場合が多いだろう。つまり、中絶を法律で禁止することは、親にも子にも精神的な苦痛を味わわせることになる。

それは本当に「正しい」のか?

中絶問題は、宗教が色濃いアメリカでは特に問題になっていることは知っている。宗教が絡むと厄介だ。「正しさ」の定義が宗教によって決められてしまうからだ。

本当に正しいかどうかは別として。本当に全員が幸せになれるかどうかも別として。



ここまで書いておいて、私にできることは少ない。というより、ほぼない。「本当に正しいのか?」と考えることはあっても、どっちが正しいとか何とか言うつもりもない。ただ、いろんな視点があるぞっていうことは常に考えていたい。

意見を持つのは自由だ。





最後にどうしてもモヤモヤしたから書いておく。

キャンパスで反対運動を見た友人が、それで苦しんでるんだよ。

親に「いらない」って言われたこと、ここまで来ても思い出さなきゃいけないの?って。

確かに苦しいと思うのは彼女自身が解決しなければならない問題だよ。困難を乗り越えて花開く、なんていう話はざらにあるし。

でもね、彼女の切実な言葉が、胸に刺さってるんだよ…。