相手を肯定するということ | カナダ留学記ーHarmony Log

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バンクーバー・ブリティッシュコロンビア大学の商学部に進学したビジネス生徒のブログ。学生生活で感じたこと、経験したことが中心。

毎週土曜日の夜(日本時間の日曜日の午後)は必ず更新する予定だが、それ以外にも思いついた時に書きたいことを書くかもしれない。

今日の文章は難産だったが、どうしても残しておきたかった。

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先日友人が私を訪ねてきてくれた。久々に会えたこともありとても楽しくて、一人ではなかなかいかないような場所に二人で足を運ぶこともできた。非常に有意義な時間だったと感じた。

ただいろんな場所に遊びに行けたというだけでなく、精神的にも有意義な時間だったと感じた。長年存在していた私の人付き合いの癖がはっきりとわかり、解消する手掛かりが見つかったからだ。

俗にいう「豆腐メンタル」だと自負している私にとって、どれほど仲の良い親友であろうと少なからず精神的に削られてしまうことが当たり前だった。むしろ、大切にしたい関係だからこそ割り切れず、相手の一挙一動が気になってしまうのだ。相手が大事だからこそ生まれる「持て成さなければ」という気持ちは、時として私を追い詰めた。そして余計にたちが悪いのは、これはすべて私自身の問題であって、相手にはまったく非がないところである。ほかの誰のせいでもない、私の問題なのだ。

今回、友人を見送った後なんとなく落ち着かずモヤモヤした気分に襲われた私は、少し時間をかけて日記に思考を書き出してみた。すると、非常にわかりやすく問題が浮かび上がった。

私は相手と同調しようとしすぎるのである。

それはただ単に相手の気持ちに寄り添うというような生易しいレベルではなかった。私は、あろうことかその相手になりきる勢いで同調しようとしていたのだ。

例えば、相手の趣味の話を聞くとき、私はそれを「好きにならなければならない」という強迫観念があった。例えば食事の好みも相手と同じものを「好きにならなければならない」という意識に駆り立てられた。この「好きにならなければ」という思考と、「でもそれは『私』じゃないんだけどな」という思考の対立がどれほど苦しいかというのは筆舌に尽くしがたい。それでも言葉にしようとするならば、ありきたりになるが「精神を真っ二つに引き裂かれる心の痛み」とでもするしかないだろう。とにかく、この状態で長くいることはできないことは明らかだ。

さらに掘り下げていくと、この「好きにならなければ」という強迫観念の根底には、ゆがんだロジックが埋まっていた。

相手が好きなものを否定することは、すなわち相手を否定することに直結する。よって相手を否定したいわけではない私は、相手が好きなものを好きになる必要がある―。

ちなみにここでいう「否定」とは「嫌い」「好みに合わない」という感情に近いものととらえている。

書き出してみてまず疑問に思ったのが、「好み」と「人間」が一対一で直結してしまっていることだ。通常、人は数多くの好みを持つ。相手の一部が私と合わなくても、別の好みで息が合うものだ。そもそも完全に好みが合わない人間とは親友になれるとは思わない。よって、数個の相手の好みが自分の好みに合わなくても、その相手の全否定にはなりえないし、相手が嫌いということにはならないのだ。

二つ目のゆがみは、私がこの間違ったロジックを人に押し付けていることである。つまり、私が一部の否定を全否定ととらえているからと言って、相手が同じように私の一部の好みの合致(もしくは不一致)で私を判断しているとは限らない、ということを完全に見落としていたということだ。この間違った押し付け、そして「大事にしたい人間に嫌われたくない」という本能的な恐怖のために、私はほんの少しも嫌われないよう一挙一動に気を使い、相手の不興を買わないように細心の注意を払うのだ。(考えただけで疲れるし、人に会いたくなくなる。)

今回この二つのゆがみに気が付き日記を書き進めるうちに、私は引き裂かれた心を一つに戻す自分の本心に気が付いた。それは、たった一文にまとめられる。

「私はあなたが語ることに対してあなたほど情熱をかけられるとは思わないが、それが好きだと語るあなたは輝いて見えるし、そういうあなたを好いている。」

どんなに相手の話す内容に興味がなくても、それを語る相手には全力で興味があるし、面白いと思うのだ。別に相手と同じものを好きにならなくても、もとから相手が好きなのだから(そうじゃなきゃ友人にはなっていない)それでいいじゃないか。

長年あったモヤモヤに決着がつき、今はすがすがしい気分である。