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カナダ留学記ーHarmony Log

バンクーバー・ブリティッシュコロンビア大学の商学部に進学したビジネス生徒のブログ。学生生活で感じたこと、経験したことが中心。

毎週土曜日の夜(日本時間の日曜日の午後)は必ず更新する予定だが、それ以外にも思いついた時に書きたいことを書くかもしれない。


洋服、毎月買う? ブログネタ:洋服、毎月買う? 参加中
結論から言えば、学生で仕送りの身分では毎月なんて恐れ多い。洋服は1か月に一回おろか一年に一、二回の購入である。

「女子としてどうなんだ」という意見もあるとは思うが、別におしゃれしてないわけじゃない。予算もあるが、むしろ、こだわりがあって下手なものをクローゼットに入れたくないのだ。

私の洋服選びの基準は厳しい。一度買ったらきれいに着られる限界まで大切に着るからだ。つまり本当に似合うものを買わないと、精神的に大損するのである。

1.まず、色は原色か白、黒のモノトーン。デザインはストレートでシンプルなもの。

2.「フリフリ・ふんわり」とした布は却下。「テローン」は辛うじてOKなときとダメな時がある。理由は、これらの布地は私の体系を隠し、見た目を太らせるから。

3.試着してみてシルエットがきれいに見えればよし。

4.ここまできて「ああ、これいいなぁ」と思う服があっても、その場でその服と家にある服を使ったコーデを3つ以上思い浮かべることができなければ却下。

厳しい選考基準を勝ち残る服は、3~4か月にいっぺん出会うか出会わないか、だ。

なお、面白いのは地域や季節の差だ。日本では私が求める服はほとんどない。「かわいい」ものが重視される中、シャープなラインと原色を使った服を見つける段階で至難の業だ。

高1で短期留学した時のアメリカも実は難しかった。個性的過ぎてどう使っていいかわからないものや、大胆すぎて羞恥心に負けたものが多かった。

今住んでいるバンクーバーは比較的に服を探しやすい。シンプルかつ上質なライフスタイルが流行っているので、上品なベーシックアイテムが簡単に見つかる。あとはサイズ、クローゼットのハンガーの数、そして予算の問題だけ。

とはいえど、この間断捨離したばかりだし、当分は服を増やすつもりはないなぁ。前回洋服を買ったのは半年前だったかな?でも、次なにか身に着けるものを買うとすれば小物だろうね。





哲学の論争の一つに、「人間は動物か、否か」というものがある。「精神を持ち、自由に思考できる人間は動物に分類されるべきではない」と主張する派と、「人間も欲に左右される動物に過ぎない」と主張するアニマリズムの信奉者たちの、哲学的な戦いだ。ポイントは「精神」を人間特有として動物とは別物にするかどうかにある。

個人的には「どうでもよくないか?」と思っている哲学の論争の一つだが、まぁ、学者じゃないから許してほしい。

学者じゃない視点で思いついたのだが、どちらかといえば私は「人間も動物である派」だ。大半の人がそれを忘れているだけだとも思っている。

例えば数年前、「動物が雨が降る前に天候の変化を察知できるなら、数万年前まで自然と共に暮らしていた人類にも可能なはずだ」とふと思い、実験してみることにした。毎日登下校時に空を見上げ、空気のにおいをかぎ、どんな時に雨が降るのか感じてみた。結果、春から秋にかけての雨は、大体数時間以内ならば予測できるようになった。冬の雨は空気が乾燥しているので予測が外れやすい。また、数時間以上は誤差が大きすぎて役に立たない。

そしてこれは雨の街バンクーバーに留学し、さらに鍛えられた。なんと、低気圧による頭痛というスキルが加わったのだ。これにより、私の天気予報は前後24時間を測定範囲に入れることができるようになった。朝起きて頭が重ければ傘をカバンに入れる。外に出て雨のにおいがするなら傘を手に持ち歩く。

素晴らしい。人間はやはり動物だった。

また、最近練習していることが「カラダの些細な変化に気づくこと」だ。砂糖を摂取する日としない日を体感し、また食後の頭の周り具合やテンションの上がり下がりなどを感じることで、血糖値の変化に気が付くことができるようになった。つぎはコーヒーやお茶など、カフェインを含むもので実験してみた。これも面白いようにわかるようになった。

面白くなってしまって、次々と試してみた。牛乳に含まれるラクトースの消化具合、摂取したタンパク質の量、ビタミンC。とりあえずこれらはマスターした。基準は簡単で、健康な状態でこれらを摂取し、体が軽くなるなら身体に必要で、重くなるなら必要ない。また摂取の上限は美味しく感じられなくなるポイントでもある。いまだに苦戦するのは油分だ。バターの取りすぎは一発でわかるのだが、オリーブオイルなど植物性の油はわかりづらい。肌が荒れて初めて気が付くぐらいだ。まだまだだな。

現在練習中なのはグルテンである。おそらく私は一般的な人よりも繊細な体なのだろう。軽度のグルテンアレルギーを持っている可能性がある。よって優先事項とした。軽度の食物アレルギーというのは限界を越えなければ適度に楽しめるものだから、ホットケーキやサンドイッチを楽しむためにもグルテンを理解したい。(ちなみに私の大豆たんぱく質アレルギーは一発で口がかゆくなったり呼吸に影響が出るので、試そうとは思わない。)

グルテンを理解したら次は何にしようか。鉄分でもいいし、ほかのビタミンを攻略してもいいな。ただ、取りすぎてもあまり影響がないものは不足過分を体感することが難しい。足りないということが分かっても上限が分からないので、自分にとっての適量を探すのに時間がかかるのだ。まぁ、気長にやるさ。

たかだか数百年の人間の科学と、生命の誕生以来続く億年単位のDNA、どっちが優勢かは明らかじゃないか。

賛否両論あると思うけれど、私は自分のことを「ちょっと頭を使う動物」だと思っている。少なくとも、そういう態度で自己管理することで体が軽くなっていることは確かだから。
「やらなければならないこと」がないとき、人は何をするのか。

今週はそんなことを自分のテーマとして取り扱った。

私は人生の大半を「やらなければならないこと」だけで埋めてきた。だから、自分が何に興味があるのかわからなかった。今週は自分にとって、一種の実験だった。

こんなことができたのも、今週はReading Breakという、一週間のまとまった休みがあったからだ。バンクーバーの雨を逃れカリフォルニアに行く友人が多い中、私がやったことといえば。

1.毎朝欠かさず3ページ日記帳を埋める。

つまらないという突っ込みは勘弁してほしい。自分でも今週のハイライトが日記を書くことだっただなんて、斜め上の結果なんだ。もっとこう、ダイナミックなことを期待していたというか、派手なことをするかと思っていたんだが…。

でもこれがいかに自分の精神の安定に役立ったかは、語り始めれば尽きることがないだろう。まず、些細な生活音でもイラついていた不安定さがほとんどなくなった。突発的に泣きたくなったり消えたくなったりといった、そういった不自然な衝動もほとんど消えた。なにより、一日を通しての気分の浮き沈みが落ち着いた。

毎朝日記を3ページ書くというのは、実は結構大変だ。朝起きてまだ寝たいと叫ぶ体を叱咤しつつ、スマホに伸びる手を叱って、机に向かい、ひたすら一時間ほど書く。書く。書く。30行のノートだから、90行埋めるまで止まらない作業だ。

よくやったものだ、と今更ながら感心している。


2.ハーブを調合する。

だんだん魔女っぽくなってきた、とこの頃感じているが、まあ自分でこの自分が気に入っているのだからいいだろう。

そう、休み中やったことといえば、日記を書くことの次にハーブの調合なのだ。もっぱらハーブティーとして消費した。

ハーブ図鑑を買ってきて、「このハーブとこのハーブの効果を掛け合わせてみよう」とか、「これだと木の香りが強すぎて癖があるから、じゃあこれを小さじ半分にしてこっちをもう半分足そう」だとか。まあ、とにかく楽しかった。

お気に入りはラズベリーの葉っぱを乾燥させたものと、ラベンダーとカモミールを少量合わせたハーブティーだ。神経を落ち着かせ、筋肉をほぐす効果がある。これを飲むと1時間以内に眠くなる。自分の身体で実験するのが楽しくてしょうがない。

ちなみに今思い出した。私は文系特化した生徒で数学は苦手だったが、理系教科の中でも化学は満点をたたき出していたことを…。


3.掃除代行のお仕事

ハーブというものは決して安いものではない。特に私が有機栽培にこだわっており、なおかつ種類をそろえたいため、月の食費を削って当てるわけにもいかない。

そこで私はどうやったらお金を手にすることができるか考え、掃除代行をすることにした。大学に住んでいる人のお家を1時間当たりいくらで掃除しますよ~という、簡単な話だ。

今週も2件お掃除をこなし、おかげでハーブを調達する資金を手に入れた。ちなみに新しく手に入れたのは鉢植えのパセリとミントだ。パセリはブルーチーズのスパゲッティ用、ミントはレモンスライスと合わせて生のハーブティーにしようと考えている。そのうちミントは切って水につけて増やして、たくさん収穫したら部屋で逆さにつるしてドライハーブにしたい。

そう、魔女の家のように。

考えるだけでも幸せである。以上。


結論:

「やらなければならないこと」がなければ、私は今にでも山か森にこもってハーブの調合をする魔女になりそうだ。



本当の豊かさとは何だろうか。

私は小さいころからお金持ちになりたかった。数年前までは、お金持ちになることが人生の最終目的だった。欲しいお金に上限はなかった。あればあるほどいい。

同時にお金を使うことを極度に恐れていた。お小遣い帳をエクセルでつけながら、出費ばかり気になった。友人とめったに遊ばなかったのも、私が内向的で人疲れするという以上に、一回の出費が当時私がもらっていた月々数千円のお小遣いの大半を食いつぶしてしまうことを嫌っていたからだったように思う。

アルバイトをするようになって、少しはお金を使うことへの恐怖は薄れた。一定の収入があるという事実は私に精神的な安定をもたらした。しかしそれも長くは続かなかった。時給制で入るお金には限度があった。それはもちろん法律で決められた最大労働時間を超えて働くことができないという限度もあったが、私の肉体的、そして精神的な疲労の限界というものもあった。六連日で働くと二日は動けなかったし、次第に原因不明のイライラがたまっていったのだ。

幸せになるためにお金が欲しかったのに、全然幸せじゃない。

そんな不満にぶち当たるのに、さほど時間はかからなかった。

だがその不満が私の歩みをいったん止めたように思う。はっと気づいたのだ。私はお金が欲しかったわけではなかった。

幸せになりたかった。

だがまだ未熟だった私にとって(当時高校を卒業し、留学するまでのギャップターム中だった)、「人生の幸せ」という壮大なテーマは取り扱うにも大きすぎた。よって答えの出ないまま、カナダに留学した。

バンクーバーに留学し、私は北米で最も貧富の差が激しい街に住むことになった。私はある意味この街でも上位の生活を送っていた。両親からの仕送りと入学時受け取った賞金で、働くことなく十分生活していくことができたからだ。もともとブランド品や外食にも興味なく、派手な生活にあこがれながらも質素な生活こそが美徳と信じていた私は、とくに不自由することなく留学一年目を終えた。

だが私の不安はぬぐえなかった。むしろ増幅した。何か決定的なものが自分にかけている気がして、意味もなく焦る日々が続いた。

自己肯定感を高めようと、一年生の夏休みに日本へ帰国し、東京にあるコンサル会社でインターンシップを行った。やっていることは俗にいう「意識高い系」そのものだったが、内心では常に自分を否定していた。褒められても、認められても、「私はそんなできた人間じゃない!頼むから期待しないでくれ!」と悲鳴を上げていた。

インターンシップが終わるころには、中途半端な心が残った。インターンシップをやったこと自体はとてもいい経験となったが、根本的な「人生の幸せ」には触れることができなかったからだ。いい大学を出て、インターンシップをやって、優秀な人材になって、いい企業に採用されて、しっかりと実績を残せば、お金に困ることなく幸せに暮らせるはずだったのだ。

どこで間違えたんだろう。

不完全燃焼のまま、大学二年目が始まった。二十歳の誕生日があっという間に来て、何も人生の成果を出すことができていない自分にまた焦りを覚えた。同時に、苛立ちも。

2015年最後、一時帰国した実家で除夜の鐘をききながら書いた日記は、二十年間生きてきた中で最も暗かっただろう。「つかれた。先に進みたくない。」というようなことが書かれたページは、今だからこそ苦笑できるが、当時は生きていることに希望を見いだせないという絶望と焦燥感でいっぱいだった。

たかが二十歳だろう、と笑うことなかれ。私は三十歳までに成功しなければならないという、謎の強迫観念を抱いていたのだ。心の中では人生の三分の二を消費していた。残り十年を切った2015年最後の日は、カウントダウンの始まりだった。まさに生き急いでいた。

バンクーバーに戻り、二学期が始まった。何者にもなれていない自分に、進まない停滞した日々に、じりじりと自己嫌悪で焼かれる気分だった。耐えられなかった。

だが一月の終わり、私が頑張るのをやめたときから、すべてが変化しだした。

私は何かを求めて追いかけるのをやめた。たったそれだけだったが、私に足りなかったのはそれだった。

現状を嘆く代わりに、どうやったら今の生活をもっと好きになることができるか考えた。いらないものを捨てた。そして、本当に自分にふさわしいものだけを手元に残すことにした。

プチ断食をして、食べ物があることに感謝した。

デジタルデトックスというやつを実践し、スマホやパソコンに触らない自分が何に興味を持つのか観察した。

断捨離した。とにかくいらないと思ったものを容赦なく捨てた。もともと持っているものは友人たちと比べても少なかったけれど、さらに減らした。空きスペースが広がるたびに、心のスペースも広がる気分だった。

バイトを始めたくて履歴書を近くのカフェに送った。

カフェの採用に落ちたので、自分で掃除代行を始めて稼ぎ始めた。めんどくさがり屋の学生やキャンパスに住む忙しい夫婦のために、一時間掃除を肩代わりした。もともと回復思考できれい好きだったので働くのが楽しかった。リピーターさんが付いてくれたから、月の食費を賄えるくらいになった。

ふと気が付けば、かつてないほど私は幸せだった。手にしているお金は相変わらず仕送りの分と、自分で稼ぎ始めたちょっとくらいだったけど。心はかつてないほど満たされている。

心が自由だ。すべて足りているのだ。なんて不思議な感覚なんだろう。

この場にとどまるつもりはないけれど、かつてないほど人生に満足している今は、間違いなく「幸せ」だと断言できる。

ここに至るまでの道は言うほど簡単ではなかったし、努力した。今までの考え方を変えるのは本当に大変で、精神的に揺れる毎日が一週間くらい続いた。夢見が悪くて、不眠症にもなりかけた。でも、それだけの価値はあったと思う。

これほど朝が訪れるのが待ち遠しい毎日は、生まれて初めてのことだから。
少し前にフェイスブックで「食べるという行為は自分が生かされているということを再確認するためにある」というようなことを書いた。

それに伴って「不食」という概念も紹介した。食べ物を避ける断食ではなく、「食べる必要がない」という選択の自由である。

そして数日前、ふとこのブログで見つけたのが「息をする意味」だった。

息をすることに意味はあるのか。まず最初に驚いたのはその問いの切り口だ。

そもそも人間を含め、ほとんどの動物が何らかの方法で呼吸しなければならないことは周知の事実である。いまさら取り上げる必要もないじゃないか。「必要」である以外に「意味」などないのではないか。

しかしブログにはこう述べてあった。

「吸う息は、受け取る。吐く息は、与える。」

単純な答えだが、人生に取り入れる価値のある解釈だと私は思う。

酸素を受け取らなければ脳細胞は数分で死んでしまう。人間が「与えられる」ことで生きていることの証明だ。

吐いた二酸化炭素は、植物が光合成をおこなう糧となる。吐く息は、それを必要とする別の存在に与えられるものなのだ。

(少なくとも産業革命で人間の二酸化炭素排出量が爆発的に増えるまでは、動物が自然に吐く二酸化炭素は植物の光合成によってバランスがとられてきたはずだ。でないと当の昔に地球は生き物が住めない星になっている。)


「受け取る」という言葉を別の角度から見ると、自分以外の存在によって「与えられる」という意味合いが強い。また「与えられる」という言葉は「許可」「許し」といった響きもある。

これを踏まえると、人間は息を吸うことで自分が存在することを許され、息を吐いて別の何かが存在することを許すのだと考えられないだろうか。


「食べること」は生かされていることの再確認。
「呼吸」はこの世界に存在することの許し、また承認。

なんとも哲学的な考えになったが、無意識でやっていることにこんな意味が付いていたら面白いと思うのだ。