「断捨離」という概念がある。ものを断ち、ものを捨て、ものに対しての執着から離れる。
もともとはヨガの概念らしいが、禅とも共通する部分が多い。ゴミがなかったという江戸時代には、日本人の多くがこの概念を体現していたのだろう。
この話だけを聞くと「へー」というただの知識なのだが、実はこれには続きがある。
面白いことに1800年代からこれが西洋に広まり、1900年代後半にかけて実存主義の広まりと共に「ミニマリズム」という概念へと進化したのだ。
ミニマリズム、つまり最小限主義とは、日常生活や思考も含めすべてを「自分にとって必要なもの」だけに絞ることを心掛けることだ。最小限主義者、別名ミニマリストは世界中で増えていて、いらなくなったものを売る初心者から洋服33枚以下で一年間過ごす上級者、さらにはバックパックに入るものしか持たないという超上級者まで様々な形態がある。
そして今、日本にミニマリズムが逆輸入されている。片付けのスペシャリストで有名なこんまりさんも、一種のミニマリストであると言えるだろう。
自分らしさを追求するにあたって、私はミニマリズムが自分のアイデンティティの一部であることに気が付いた。
何やら横文字ばかりで頭の悪そうな恥ずかしい文になってしまったが、つまり以下のことが言いたい。
最小限しかもたない、というのは、一つの人生の楽しみ方であると思う。そしてその生き方は、不健全な執着を手放し真に自由で幸福な精神を手に入れ、何にも依存することなく人生を楽しみたいという私の根本的な願いに沿うものである。よって、私は最小限主義という考え方を自分の人生の一部として取り上げたい。
…ああ、やはり横文字でなく日本語で説明すると美しく、きちっと意味のある文章になるなぁ。
そして早速ミニマリズムを実行するため、私は今週末断捨離を行った。
結論から言うと、段ボール2箱ほどの「不必要なもの」が出てきた。
多すぎる雑巾。
使わないタオル。
一度も開かない過去の授業まとめ。
どこにしまえばいいのかわからない雑誌の切り抜き。
アイロン台のないアイロン。
穴の開いたシャツと鞄。
まだまだいろいろあったが、とりあえず「持ってても向こう1年は使わないな」というものはすべて処分した。
結果、なんということだろう。
心が軽い。
視界から入る情報が少なくなり、精神的に落ち着く。
どこに何があるかほとんど把握できる。
クローゼットの中はお気に入りの服ばかりなので、ドアを開くたびにニンマリする。
なんだか気分がすっきりするおかげで、勉強がはかどる。
人間、意外と物がなくても生きていけるんだということが良く分かった。
実は私はマスターベッドルームを使っているのだが、こんなに大きな部屋はいらないことも判明した。よって、再来週のまとまった休日を使って、ルームメイトと部屋を交換することにした。より物を少なく絞るためには、小さな部屋に住んだ方がやりやすいのだ。収納場所は少なければ少ないほど、自分にとって大切なものの優先順位がわかるのだ。
目指すはスーツケース1つに収まる程度の荷物である。
そこまで減らすことができたら世界中旅行し放題だな!
旧暦では2月8日から新年らしい。今年は年末日本に帰ったこともあって大忙しだったので、あわただしい中新年を迎えた。そのため、しっかりとした抱負も立てず2016年が始まってしまったことを少し後悔していた。だからせめて旧暦の新年に合わせてしっかりと今年のテーマを決めようと思うのだ。
さて、ここ数週間どんな一年を過ごしたいか考えてきた。20歳になったことを喜ばしく思う一方で、何も成し遂げられていない自分に苛立つ日々だった。幸せな人生を送ることを目的に生きている私としては異例なほど、幸せを感じる瞬間が少なく短かった。
なぜだろうか。
ここ数日でこの数週間の悩みにやっと光が差してきた。
数日前の日記にはこんなことを書いた記憶がある。
「何も進んでいないと思い焦る日々に陥った時、それは少し昔の自分が抱いた『もう頑張りたくない』という心の叫びが現実化したものではないだろうか。」
世の中にはいろいろな人がいるが、私は自身の性格をこう分析している。「苦手なものもそうでないものも、努力すればできると信じ、そして実際に何とか出来てしまったゆえに失敗を不必要に恐れる」タイプ。
つまり潜在意識では「嫌なこと」でも何とかうまくこなしてしまうため、心か身体が悲鳴を上げて抗議するまで気が付けない。
もしかすると停滞したと感じる日々は、潜在意識で「休ませてほしい」と願ったことが引き寄せの法則で叶った状態なのかもしれないと、ふとそう思ったのだ。
そう考えるといろいろなことに説明が付いた。頑張った後には必ず燃え尽きること。燃え尽きている状態で頑張ろうとすると余計苦しみが長引くこと。何とかペーストテンションを上げて頑張っても、すぐ墜落するように燃え尽きること。
こういった問題が起きたのは「休ませてほしい」と心が叫んでいるときに「まだ進めるだろう」と自分を追い立てていたからだ。
よく「頑張っている人に頑張ってと声をかけると、相手の苦しみが悪化する」というが、まさにその通りだったらしい。
一つ注意しておかなければならないのは、「頑張る」という言葉の定義だ。
「頑張る」という言葉は多くの場合ポジティブな響きを持つ。ゆえに「もう頑張らない」という言葉はネガティブに受け止められることが多い。
しかしあえて私はこう考える。頑張ることの根本にある「忍耐」は哲学でも宗教でも美徳とされるが、それも度を過ぎればやはり人生のバランスを崩す。また、何かより良いもののためにつらい状況に「耐える」という概念も、長期的な目線では非効率的だ。それよりもその状況を「受け入れる」という概念の方がよほど自然で楽に同じ結果を手に入れられるのだと思う。
たかが20年生きてきただけで何を偉そうに、と自分でも思うときがあるが、もう何度も燃え尽き症候群を繰り返してきたのだ。小学校6年で学業面で燃え尽きて以降、毎年少なくとも2回は何かに対して燃え尽きてきた。あれから9年たっているから、18回は(大なり小なり)燃え尽き症候群を繰り返している。燃え尽きるたびにまた自分を鼓舞し、テンションを上げ、重たい精神を引きずりながら回復を待つしかない日々。解決方法はただ「頑張る」という意識を手放すだけでよかったのに、それに気が付けずどれほど精神力を無駄にしたことか。
もう頑張ることに飽きた。燃え尽きることにも飽きた。
そう思った瞬間、心がとても軽くなった。
ゆえに今年の抱負は「自己肯定」にしようと思う。どんな状態の自分でも、「それが今の最善」だと言い切れる自己肯定感をはぐくみたい。
一方で自分の中で自分を批判する部分は今でも消えない。「そんな『頑張らない』とか生ぬるいこと言っちゃって、大丈夫?周りにおいていかれる不安を忘れたとは言わせないよ?『ゆとり世代はこれだからダメなんだ』とかいう無責任な批判を受けるんじゃないの?」
だが今なら言えることが一つある。
その批判的な意見こそ甘すぎる。こき使ったボロボロの心でまっとうで幸せな人生を送れるつもりだなんて、そっちこそ人生なめてるんじゃないのか。
さて、ここ数週間どんな一年を過ごしたいか考えてきた。20歳になったことを喜ばしく思う一方で、何も成し遂げられていない自分に苛立つ日々だった。幸せな人生を送ることを目的に生きている私としては異例なほど、幸せを感じる瞬間が少なく短かった。
なぜだろうか。
ここ数日でこの数週間の悩みにやっと光が差してきた。
数日前の日記にはこんなことを書いた記憶がある。
「何も進んでいないと思い焦る日々に陥った時、それは少し昔の自分が抱いた『もう頑張りたくない』という心の叫びが現実化したものではないだろうか。」
世の中にはいろいろな人がいるが、私は自身の性格をこう分析している。「苦手なものもそうでないものも、努力すればできると信じ、そして実際に何とか出来てしまったゆえに失敗を不必要に恐れる」タイプ。
つまり潜在意識では「嫌なこと」でも何とかうまくこなしてしまうため、心か身体が悲鳴を上げて抗議するまで気が付けない。
もしかすると停滞したと感じる日々は、潜在意識で「休ませてほしい」と願ったことが引き寄せの法則で叶った状態なのかもしれないと、ふとそう思ったのだ。
そう考えるといろいろなことに説明が付いた。頑張った後には必ず燃え尽きること。燃え尽きている状態で頑張ろうとすると余計苦しみが長引くこと。何とかペーストテンションを上げて頑張っても、すぐ墜落するように燃え尽きること。
こういった問題が起きたのは「休ませてほしい」と心が叫んでいるときに「まだ進めるだろう」と自分を追い立てていたからだ。
よく「頑張っている人に頑張ってと声をかけると、相手の苦しみが悪化する」というが、まさにその通りだったらしい。
一つ注意しておかなければならないのは、「頑張る」という言葉の定義だ。
「頑張る」という言葉は多くの場合ポジティブな響きを持つ。ゆえに「もう頑張らない」という言葉はネガティブに受け止められることが多い。
しかしあえて私はこう考える。頑張ることの根本にある「忍耐」は哲学でも宗教でも美徳とされるが、それも度を過ぎればやはり人生のバランスを崩す。また、何かより良いもののためにつらい状況に「耐える」という概念も、長期的な目線では非効率的だ。それよりもその状況を「受け入れる」という概念の方がよほど自然で楽に同じ結果を手に入れられるのだと思う。
たかが20年生きてきただけで何を偉そうに、と自分でも思うときがあるが、もう何度も燃え尽き症候群を繰り返してきたのだ。小学校6年で学業面で燃え尽きて以降、毎年少なくとも2回は何かに対して燃え尽きてきた。あれから9年たっているから、18回は(大なり小なり)燃え尽き症候群を繰り返している。燃え尽きるたびにまた自分を鼓舞し、テンションを上げ、重たい精神を引きずりながら回復を待つしかない日々。解決方法はただ「頑張る」という意識を手放すだけでよかったのに、それに気が付けずどれほど精神力を無駄にしたことか。
もう頑張ることに飽きた。燃え尽きることにも飽きた。
そう思った瞬間、心がとても軽くなった。
ゆえに今年の抱負は「自己肯定」にしようと思う。どんな状態の自分でも、「それが今の最善」だと言い切れる自己肯定感をはぐくみたい。
一方で自分の中で自分を批判する部分は今でも消えない。「そんな『頑張らない』とか生ぬるいこと言っちゃって、大丈夫?周りにおいていかれる不安を忘れたとは言わせないよ?『ゆとり世代はこれだからダメなんだ』とかいう無責任な批判を受けるんじゃないの?」
だが今なら言えることが一つある。
その批判的な意見こそ甘すぎる。こき使ったボロボロの心でまっとうで幸せな人生を送れるつもりだなんて、そっちこそ人生なめてるんじゃないのか。
成人式の小物を祖母の家に取りに行ったとき、一冊の日誌が見つかった。私が幼稚園生だった時に母が付けていたものだった。
始まりの日付は1999年4月12日。私が3歳の時である。「母子共々よろしくお願い致します」と几帳面な字で書かれた最初の記録は、17年前、母親としてまだ3年生だった母が書いたもの。緊張がうかがえる丁寧な字だ。
一方で母の字で語られる私の能天気さといえば、20歳になった今読んでも笑いがこみあげてくるものがある。
幼稚園に通い始めて一週間がたった時の私の発言がこれだ。
1999年4月19日(月)
「そろそろ幼稚園も疲れたから明日はお休みするかな」
ずいぶんと自由な幼稚園生だったらしい。
他にも友達とケンカして相手を叩いたり、叩かれたりして、かなり元気な子供だったようだ。今の自分からは想像つかないほどエネルギッシュな様子が日誌からうかがえた。
そういえば小さいころは友人の家に遊びに行くと、決まって帰り際ゴネていたなぁ。楽しいこと、ワクワクすることに敏感で、楽しい時間が終わるのが大嫌いだった。一人だけ楽しいことからおいていかれるのも大嫌い。楽しみにしていた予定がキャンセルされると荒れ狂っていたらしい(笑)
一方でなかなか面白い子供でもあったらしい。何かやらかして自分に非があると思うと、母に尋ねられても「ニヤニヤしながらごまかしたり」「クネクネ、ニヤニヤ」していたらしい。どんなごまかし方だ、それは。
百歩譲ってニヤニヤはわかる。しかしクネクネとはどういうことだ。自分のことながら永遠の謎になりそうだ。
「どうぞ、キレる子になりませんように…」という母の切実なつぶやきが笑えてしまう。
また、吹き出してしまったもう一つの記録がある。以下が母の記録だ。
「幼稚園のお友達のまいちゃんのことを話してくれました。『…お母さん、まいちゃんとお話したことないからまいちゃんの声を聞いたことないなぁ。どんな声だろうね?』というと、『あのね、のんちゃんみたいじゃなくてね、あのね、もっとのんちゃんとちがった、おんならしい声だよ』と自分をわきまえた分析をしていました。」
母の鋭いコメントもさながら、当時からあまり女の子らしくないことばかりしていたんだろうなぁと思うと、どうして中高時代あんなに必死になって周りの女子に溶け込もうとしていたのかがわからなくなって笑えた。
あこがれはあるけど、自分じゃない。
理想はそうだけど、できないものは仕方ない。
まわりはそう言うけど、私はこうしたい。
そうやって割り切って、退屈な日がなかった3歳のあの時。思えばあの時が一番人生を謳歌していた気がする。
小学校に入って、やりたいことが必ずしも最善の結果をもたらすわけじゃないことを社会が教えてくれようとしたけど、未熟だった私は「起こした行動に伴う罰」ということしかわからなかった。どうして思うとおりにさせてくれないんだと何度も学校や教師を恨んだけど、結局罰を与えられるのが怖くて、いつの間にかルールに従うことが私の生きがいになってた。規則に従うと褒められる。従わないと怒られる。そこに私の意志はなくて、でも楽しいことより怖いことの方が嫌だったから、学校の規則に従った。
私は「楽しさ」を得るために挑戦したり、失敗したりすることも怖くなった。
決定打はどこだったのかわからない。遊び半分で振り回した鉛筆が幼馴染の手のひらに刺さってしまった時だったのかもしれない。裏山に秘密基地を作ったら「危ない場所だから」と言われ、教師に壊された時だったのかもしれない。もしかしたら思い出したくなくて記憶から消去したことがあるかもしれない。
大人はダメとしか言わなかった。どうしてだめなのか、当時の私にわかる言葉で説明してほしかった。今だから大人にも事情があったり、上手に伝える術を知らなかったということくらいはわかるけど…。
おかげさまで3歳腕白だった私は12歳になるころには優等生。社会的には模範的な生徒だったけど、校則のない学校の外に出ると何も自主的にはできなかった。学校の帰り、本屋によるのも心臓が破裂するほど怖かった。ぶっちゃけてしまうと、今でも髪を染めている人を見るとひやひやするし、ピアスを開けるのだって「先生に怒られるんじゃ」という恐怖が一瞬頭をよぎる。
今だから言える。これほど恐怖するのはおかしい。
もう成人を迎えたのだから、大人が作ったルールに縛られる必要はない。哲学の授業を取ったおかげで、やりたいことが最善ではないということも十分わかっているつもりだ。
そろそろ自分を許してあげてもいいんじゃないかな。
始まりの日付は1999年4月12日。私が3歳の時である。「母子共々よろしくお願い致します」と几帳面な字で書かれた最初の記録は、17年前、母親としてまだ3年生だった母が書いたもの。緊張がうかがえる丁寧な字だ。
一方で母の字で語られる私の能天気さといえば、20歳になった今読んでも笑いがこみあげてくるものがある。
幼稚園に通い始めて一週間がたった時の私の発言がこれだ。
1999年4月19日(月)
「そろそろ幼稚園も疲れたから明日はお休みするかな」
ずいぶんと自由な幼稚園生だったらしい。
他にも友達とケンカして相手を叩いたり、叩かれたりして、かなり元気な子供だったようだ。今の自分からは想像つかないほどエネルギッシュな様子が日誌からうかがえた。
そういえば小さいころは友人の家に遊びに行くと、決まって帰り際ゴネていたなぁ。楽しいこと、ワクワクすることに敏感で、楽しい時間が終わるのが大嫌いだった。一人だけ楽しいことからおいていかれるのも大嫌い。楽しみにしていた予定がキャンセルされると荒れ狂っていたらしい(笑)
一方でなかなか面白い子供でもあったらしい。何かやらかして自分に非があると思うと、母に尋ねられても「ニヤニヤしながらごまかしたり」「クネクネ、ニヤニヤ」していたらしい。どんなごまかし方だ、それは。
百歩譲ってニヤニヤはわかる。しかしクネクネとはどういうことだ。自分のことながら永遠の謎になりそうだ。
「どうぞ、キレる子になりませんように…」という母の切実なつぶやきが笑えてしまう。
また、吹き出してしまったもう一つの記録がある。以下が母の記録だ。
「幼稚園のお友達のまいちゃんのことを話してくれました。『…お母さん、まいちゃんとお話したことないからまいちゃんの声を聞いたことないなぁ。どんな声だろうね?』というと、『あのね、のんちゃんみたいじゃなくてね、あのね、もっとのんちゃんとちがった、おんならしい声だよ』と自分をわきまえた分析をしていました。」
母の鋭いコメントもさながら、当時からあまり女の子らしくないことばかりしていたんだろうなぁと思うと、どうして中高時代あんなに必死になって周りの女子に溶け込もうとしていたのかがわからなくなって笑えた。
あこがれはあるけど、自分じゃない。
理想はそうだけど、できないものは仕方ない。
まわりはそう言うけど、私はこうしたい。
そうやって割り切って、退屈な日がなかった3歳のあの時。思えばあの時が一番人生を謳歌していた気がする。
小学校に入って、やりたいことが必ずしも最善の結果をもたらすわけじゃないことを社会が教えてくれようとしたけど、未熟だった私は「起こした行動に伴う罰」ということしかわからなかった。どうして思うとおりにさせてくれないんだと何度も学校や教師を恨んだけど、結局罰を与えられるのが怖くて、いつの間にかルールに従うことが私の生きがいになってた。規則に従うと褒められる。従わないと怒られる。そこに私の意志はなくて、でも楽しいことより怖いことの方が嫌だったから、学校の規則に従った。
私は「楽しさ」を得るために挑戦したり、失敗したりすることも怖くなった。
決定打はどこだったのかわからない。遊び半分で振り回した鉛筆が幼馴染の手のひらに刺さってしまった時だったのかもしれない。裏山に秘密基地を作ったら「危ない場所だから」と言われ、教師に壊された時だったのかもしれない。もしかしたら思い出したくなくて記憶から消去したことがあるかもしれない。
大人はダメとしか言わなかった。どうしてだめなのか、当時の私にわかる言葉で説明してほしかった。今だから大人にも事情があったり、上手に伝える術を知らなかったということくらいはわかるけど…。
おかげさまで3歳腕白だった私は12歳になるころには優等生。社会的には模範的な生徒だったけど、校則のない学校の外に出ると何も自主的にはできなかった。学校の帰り、本屋によるのも心臓が破裂するほど怖かった。ぶっちゃけてしまうと、今でも髪を染めている人を見るとひやひやするし、ピアスを開けるのだって「先生に怒られるんじゃ」という恐怖が一瞬頭をよぎる。
今だから言える。これほど恐怖するのはおかしい。
もう成人を迎えたのだから、大人が作ったルールに縛られる必要はない。哲学の授業を取ったおかげで、やりたいことが最善ではないということも十分わかっているつもりだ。
そろそろ自分を許してあげてもいいんじゃないかな。
ここのところ、「フィドル」にはまっている。名称が違うだけでヴァイオリンのことである。ヴァイオリンとの違いは単に弾く音楽のジャンルの違いだけだ。
ヴァイオリンで演奏するのは主にクラシック音楽、、つまり昔の宮廷音楽だ。きらびやかな宮殿で貴族を楽しませるために音楽家たちがエレガントな曲を演奏する―そんなイメージ。
一方でフィドルはもっと荒っぽくて泥臭い。ジブシー、ケルト、アイルランドの人々が民族音楽として演奏していたもので、お世辞にも「エレガント」とは言いがたい音楽ばかりだ。メロディーも単調で特に難しいテクニックはなく、クラシック出身のヴァイオリニストなら所見でも余裕で弾くことができるだろう。
だがこのフィドル、奥が深い。噛めば噛むほど味が出る昆布のようである。
メロディーは四分音符や八分音符ばかりなので簡単だが、グレースやロールと呼ばれる「装飾音」をこれでもかというほど加え、さらに二拍子ながら三つの音をまとめて(スラーにして)弾く。これはヴァイオリンを13年習ってきた私でも慣れるためにかなり練習を必要とする。
装飾音を加える場所、そして音をまとめる(スラーにする)場所はある程度のルールを守ったうえでなら自由にしていい。こうして「自分だけのスタイル」が確立されていくわけだ。
民族音楽を演奏するためのフィドルは、こうして自分のスタイルを作り上げる自由さがある。作曲家がはっきりしていることがほとんどのクラシック音楽とは真逆で、数百年もの間形を変えつつ弾かれ継がれてきたメロディーなのだ。
フィドルのすばらしさはその自由度だけではない。フィドルで演奏する民族音楽は弾き手と聴き手に分かれるものではなく、その場にいる全員で作り上げる音楽だ。
ノリがいい人なら誰でも大歓迎だ。ギターが飛び入り参加してもいい。フルートやリコーダーがフィドルと和音を作り上げたっていい。楽器が弾けなくても手拍子で参加してほしい。派手なオーケストラなどいらない民族音楽では、手拍子が一番の伴奏だ。
たき火を囲んで輪になって、燃え上がる炎に音楽をのせて演奏してもいいし、バーやパブで場を盛り上げるために演奏してもいい。踊りに合わせたっていい。
大事なのは「自分とは何者なのか?」という問いに、リズムとノリでもって答えることだ。
まだまだ練習しなければならないが、私はフィドルをあえて「美しく」弾きたい。フィドルを演奏する人たちの中には、音程や弓使いを気にせず乱暴に、荒々しく演奏するものをフィドルだと思っている人が多い。
確かに宮廷音楽と比べてしまえば、良い楽器を手に入れる機会が少なくちゃんとしたレッスンなど受けている余裕のない一般的な人たちが受け継いでいった民族音楽は「洗練されていない」ように感じるだろう。
だがフィドルの音楽の良さは決して汚く弾くことではないのだ。むしろ簡単なメロディーを洗練された音で情熱的に表現するのがこの音楽の醍醐味だろう。
そしてこの音楽のスタイルは「私の生き方」をとてもよく反映していると思う。
私は今までいろんな場所、いろんな環境で生きてきて、いろんなことを体験した。引っ越した回数も多いし、日本を出て暮らす(アメリカとカナダ)という経験も積んだ。国際バカロレアという、日本のものでもアメリカのものでもないヨーロッパ原点の特殊な教育システムで6年間学んだ。
環境がぐるぐる変わって、私の周りの人間が変わっていく中で、何度もアイデンティティーを問われた。特に海外生活の影響は大きくて、何度も作り上げた自分の立場が壊れるのを経験した。生まれ育った国を出たことのない人にはなかなかわからない、絶望的なまでの足場の不安定さだ。
でもその中で残ってきた「自分の核」というものは普遍的だ。
たとえば「親しき中にも礼儀あり」を大事に思っていたり、哲学的に考えるのが好きだったり、つねにより良い未来を想像したり。嘘が嫌いで、家族が大事で、知性を重んじるのも私だ。コーヒーや紅茶で一服するのが大好きで、ジョギングするのが大好きで、「気さくであること」「ユーモアがあること」を大事にしている。そして何より、自由と自立を大切に思っている。
まだ未完成だけれど、私のスタイルは着々と出来上がりつつある。そして民族音楽は数百年間、環境が変わってもアレンジが加えられても、根本的な「核」のメロディーはあまり変化しない。フィドルは素晴らしく私の自己表現に合っているのだ。
だれか「私のスタイルはね…」っていう会話で盛り上がりたい人はいないかな。とても楽しい会話ができると思うのだが。
先週のTEDxVancouverでブレイクダンサーのお兄さんが言っていた通り。
"What's your style?"
ヴァイオリンで演奏するのは主にクラシック音楽、、つまり昔の宮廷音楽だ。きらびやかな宮殿で貴族を楽しませるために音楽家たちがエレガントな曲を演奏する―そんなイメージ。
一方でフィドルはもっと荒っぽくて泥臭い。ジブシー、ケルト、アイルランドの人々が民族音楽として演奏していたもので、お世辞にも「エレガント」とは言いがたい音楽ばかりだ。メロディーも単調で特に難しいテクニックはなく、クラシック出身のヴァイオリニストなら所見でも余裕で弾くことができるだろう。
だがこのフィドル、奥が深い。噛めば噛むほど味が出る昆布のようである。
メロディーは四分音符や八分音符ばかりなので簡単だが、グレースやロールと呼ばれる「装飾音」をこれでもかというほど加え、さらに二拍子ながら三つの音をまとめて(スラーにして)弾く。これはヴァイオリンを13年習ってきた私でも慣れるためにかなり練習を必要とする。
装飾音を加える場所、そして音をまとめる(スラーにする)場所はある程度のルールを守ったうえでなら自由にしていい。こうして「自分だけのスタイル」が確立されていくわけだ。
民族音楽を演奏するためのフィドルは、こうして自分のスタイルを作り上げる自由さがある。作曲家がはっきりしていることがほとんどのクラシック音楽とは真逆で、数百年もの間形を変えつつ弾かれ継がれてきたメロディーなのだ。
フィドルのすばらしさはその自由度だけではない。フィドルで演奏する民族音楽は弾き手と聴き手に分かれるものではなく、その場にいる全員で作り上げる音楽だ。
ノリがいい人なら誰でも大歓迎だ。ギターが飛び入り参加してもいい。フルートやリコーダーがフィドルと和音を作り上げたっていい。楽器が弾けなくても手拍子で参加してほしい。派手なオーケストラなどいらない民族音楽では、手拍子が一番の伴奏だ。
たき火を囲んで輪になって、燃え上がる炎に音楽をのせて演奏してもいいし、バーやパブで場を盛り上げるために演奏してもいい。踊りに合わせたっていい。
大事なのは「自分とは何者なのか?」という問いに、リズムとノリでもって答えることだ。
まだまだ練習しなければならないが、私はフィドルをあえて「美しく」弾きたい。フィドルを演奏する人たちの中には、音程や弓使いを気にせず乱暴に、荒々しく演奏するものをフィドルだと思っている人が多い。
確かに宮廷音楽と比べてしまえば、良い楽器を手に入れる機会が少なくちゃんとしたレッスンなど受けている余裕のない一般的な人たちが受け継いでいった民族音楽は「洗練されていない」ように感じるだろう。
だがフィドルの音楽の良さは決して汚く弾くことではないのだ。むしろ簡単なメロディーを洗練された音で情熱的に表現するのがこの音楽の醍醐味だろう。
そしてこの音楽のスタイルは「私の生き方」をとてもよく反映していると思う。
私は今までいろんな場所、いろんな環境で生きてきて、いろんなことを体験した。引っ越した回数も多いし、日本を出て暮らす(アメリカとカナダ)という経験も積んだ。国際バカロレアという、日本のものでもアメリカのものでもないヨーロッパ原点の特殊な教育システムで6年間学んだ。
環境がぐるぐる変わって、私の周りの人間が変わっていく中で、何度もアイデンティティーを問われた。特に海外生活の影響は大きくて、何度も作り上げた自分の立場が壊れるのを経験した。生まれ育った国を出たことのない人にはなかなかわからない、絶望的なまでの足場の不安定さだ。
でもその中で残ってきた「自分の核」というものは普遍的だ。
たとえば「親しき中にも礼儀あり」を大事に思っていたり、哲学的に考えるのが好きだったり、つねにより良い未来を想像したり。嘘が嫌いで、家族が大事で、知性を重んじるのも私だ。コーヒーや紅茶で一服するのが大好きで、ジョギングするのが大好きで、「気さくであること」「ユーモアがあること」を大事にしている。そして何より、自由と自立を大切に思っている。
まだ未完成だけれど、私のスタイルは着々と出来上がりつつある。そして民族音楽は数百年間、環境が変わってもアレンジが加えられても、根本的な「核」のメロディーはあまり変化しない。フィドルは素晴らしく私の自己表現に合っているのだ。
だれか「私のスタイルはね…」っていう会話で盛り上がりたい人はいないかな。とても楽しい会話ができると思うのだが。
先週のTEDxVancouverでブレイクダンサーのお兄さんが言っていた通り。
"What's your style?"
TEDという企画を知っているだろうか。世界中から知識人が集まり、世界最先端の研究や自由な発想を発表するプレゼン企画だ。世界最大のTEDイベントはカリフォルニアで行われるが、これとは別にTED監修で各地の団体が自由に集まり行うものを「TEDx」と呼ぶ。今回はバンクーバー市が開催したTEDxVancouverに参加してきた。
どのプレゼンも素晴らしく、ボロ泣きしたり大笑いしたりと感情的に非常に揺さぶられた。中でも一番最後に行われたプレゼンが非常に印象に残っている。
プレゼンターは女子サッカーカナダ代表チームのコーチ。彼は世界ランキング最下位になり、失意に陥っていたそのチームを9か月後に世界大会で銅メダルを得るまでに導いた鬼才だ。
彼の伝える「成功の方法」はシンプルだった。
1.自分が「譲れない一線」はどこにあるのか見つけること。
2.自分にとって真に価値のある目的地を「北極星」として定めること。
3.我慢できない一線から滑り落ちることがないよう、常に「良く在れ」。
とくにこの三番目のメッセージに感嘆した。譲れない一線を絶対に間違えないよう常に努力するのは並大抵のことではない。しかもこのコーチは「オン・オフを作るな。常にこの線を守れ。」という。女子サッカーチームの例でいうと、常に80+%の成績をおさめることがこの境界線になるらしい。
もちろんこれがいかに難しいことであるかは彼も理解していて、「別にそれでいいと思う人がいてもかまわない」と断っていた。大切なのはこれが「頂点に上り詰めるために必要な心構えであること」を理解することだ、とも。
感動で震えた。
私は今まで自分のことを「詰めが甘い」と常に苦々しく思っていた。成績もA-ではあるけれどA+を必ずつかんでくるような生徒ではないし、トップの生徒と比べると課外活動もかなり見劣りする。けれど、自分で自分の譲れない一線は決めてきたつもりだ。(成績に関しては80%を切ったら自己嫌悪、大反省会である。)この心構えが間違っていなかったことを確認し、非常に前向きな気持ちになった。
それと同時に私に足りないものは何であるか、はっきりとわかった。心の炎になるような、指針となるような「北極星」、つまり人生の目的地や生きがいなどがまだ定かではないのだ。ゆえに譲れない一線をぎりぎり守る場所でふらふらしてしまう。
もうすぐで生まれてから20年立つ。燃えるような情熱を自分の北極星とすることができたら、私の人生はどれほど豊かになるのだろう。
どのプレゼンも素晴らしく、ボロ泣きしたり大笑いしたりと感情的に非常に揺さぶられた。中でも一番最後に行われたプレゼンが非常に印象に残っている。
プレゼンターは女子サッカーカナダ代表チームのコーチ。彼は世界ランキング最下位になり、失意に陥っていたそのチームを9か月後に世界大会で銅メダルを得るまでに導いた鬼才だ。
彼の伝える「成功の方法」はシンプルだった。
1.自分が「譲れない一線」はどこにあるのか見つけること。
2.自分にとって真に価値のある目的地を「北極星」として定めること。
3.我慢できない一線から滑り落ちることがないよう、常に「良く在れ」。
とくにこの三番目のメッセージに感嘆した。譲れない一線を絶対に間違えないよう常に努力するのは並大抵のことではない。しかもこのコーチは「オン・オフを作るな。常にこの線を守れ。」という。女子サッカーチームの例でいうと、常に80+%の成績をおさめることがこの境界線になるらしい。
もちろんこれがいかに難しいことであるかは彼も理解していて、「別にそれでいいと思う人がいてもかまわない」と断っていた。大切なのはこれが「頂点に上り詰めるために必要な心構えであること」を理解することだ、とも。
感動で震えた。
私は今まで自分のことを「詰めが甘い」と常に苦々しく思っていた。成績もA-ではあるけれどA+を必ずつかんでくるような生徒ではないし、トップの生徒と比べると課外活動もかなり見劣りする。けれど、自分で自分の譲れない一線は決めてきたつもりだ。(成績に関しては80%を切ったら自己嫌悪、大反省会である。)この心構えが間違っていなかったことを確認し、非常に前向きな気持ちになった。
それと同時に私に足りないものは何であるか、はっきりとわかった。心の炎になるような、指針となるような「北極星」、つまり人生の目的地や生きがいなどがまだ定かではないのだ。ゆえに譲れない一線をぎりぎり守る場所でふらふらしてしまう。
もうすぐで生まれてから20年立つ。燃えるような情熱を自分の北極星とすることができたら、私の人生はどれほど豊かになるのだろう。