これは、あくまで
私の個人意見でしかないのですが

人の人生に口出しする人は

自分の人生を生きてない人
じゃないかな

人の人生に口出しする人は

自分の人生を諦めている人
じゃないかな


人の人生に口だしする人は
実は不安でいっぱいな人
じゃないかな


ひとの人生に口出しする人は
人の目を気にして
やりたいことをやらずにいたり
言いたいことを言わずにいたり


我慢と遠慮と妥協を重ねて
自分の本当の気持ちがわからずに
なんかモヤモヤしていて

それは本当は自分のせいなのに
目の前の人のせいだと
責任転嫁している人なんじゃないかな


ひとの人生に口だししている暇があったら
その時間使って自分と向き合えばいいのにね


そしたら
自分のこと今よりわかるようになるんじゃないいかな

そしたら
自分のことを
今より好きになるよ


そして
思ってるより
大したことない自分に
がっかりするよ、笑


そんな
思ってるよりロクでもない自分に
降参したら

なんか知らんけど
幸せになる


泣いたり怒ったり
悲しんだり
絶望したり


そんな一瞬が全て愛おしくて
そんな一瞬が全て幸せだと

あるときふっと気づくんだ



学生時代を振り返ってみれば
わかるよね

友達と絶交して
後悔した夜

テストの結果が信じられないくらい悪くて
落ち込んだ日

好きな人に話しかけらrて
舞い上がった日


今振り返って思うのは
青春の毎日が
全てキラキラひかる宝石のような日々だったと

その全てが幸せだったと

過ぎ去って今
懐かしく思う


ひとのことをとやかく言うひとって

自分の人生は他人に左右される
他人に影響を受ける

自分の幸せは他人次第

自分には
自分を幸せにする力がないと

自分を諦めている人じゃないかな




はやく思い出せるといいね




自分には
自分だけでなく

周りの人を幸せにする力がある
そんな人だったと


はやく思い出せるといいね











現実創造の仕組み

とかいたけど

 

全然関係ないかもしれないわ、笑。

 

 

さっきお風呂で

「時間」についてぼーっと考えてたら

 

面白い仮説を思いついたので

忘れないうちに書いておこうと思って

ブログ書いてます。

 

 

 

「時間」について。

 

じつは科学的には「時間」と言うものは存在しないんだそう。

 

存在しないというか証明できないというか

そんな感じなんかな?と個人的には思っているけども。

 

 

科学的には

「時」はあるけど「時間」はない、らしい。

 

(ということは

「過去」とか「未来」と言うものも存在しないということ?)

 

 

だから

科学的には

いわゆる「過去」に戻れる。

 

音楽テープなどを巻き戻せるように

科学的には過去に巻き戻せるはず、らしい。

(だいぶざっくり!)

 

こんな話を読むと

頭の中が????だらけになる。

 

 

私には

時間というものがどうしても

科学的に理解できなくて

 

苦し紛れに編み出した

私的時間の解釈

 

「1冊の本」として考えてみるという方法だった。

 

1冊の本は100ページあって

1ページ目は1歳、

2ページ目は2歳、

3ページ目は3歳、

と言う具合に

1ページごとにストーリが書かれていたとする。

 

順番に読んで行くと

そこには「時間の流れ」があるという感覚がする。

 

 

でも、実際は

「過去(1ページ目)」も「未来(100ページ目)」も

「今この瞬間」に同時に存在していて

そこには時間の流れはない。

 

また本は

途中からでも読めるし

結末を読んでしまってから、最初から読む事もできるし

少し読んでは戻り、少し読んでは戻り

という

365歩のマーチ的な読み方もできる。

 

 

でも、

時間は?

 

戻る事も最後を先に知っておく事も無理。

 

 

うーん。。

 

 

 

お風呂でぽちゃんと浸かりながら

ぼーっと考える。

 

 

 

あ!もしかして。

 

実は私達は

過去に戻ったり未来に行ったりしているかもしれない。

 

なんでできないと思っているかというと

 

ひとつは

「できない」と思いこんでいるからできない。

 

もうひとつは

実はできているんだけど

 

今の年齢の記憶を持ったままではないため

時間移動をしてることに気づいていない。

 

 

本の場合は

50ページ目を読んだあと

その記憶を持ったまま15ページを読めるけど

 

時間は

50ページ目の意識を持った状態から

15ページ目に飛んだとたん、15ページ目の意識だけになって

50ページ目のときの意識を忘れてしまうから

 

という

面白い仮説を思いついたんです。

 

(分かりにくいよね。。)

 

 

それは例えば

4チャンネルの記憶を持ったまま

6チャンネルを見ても面白くないのと同じ理由かも。

 

チャンネル切り替えたとたん、

今まで見ていた内容、忘れない?

忘れるというか

記憶がどっかへ行っちゃうというか。

(私だけ?)

 

 

 

うまく言語化できなくてごめんよ。

 

 

チャンネルの切り替えは

自動で起きてるわけじゃなくて

 

個人の意志、決定のもと行われている気がする。

 

(お、ちょっと現実創造の仕組みっぽい話になってきだぞ〕

 

 

意思は意識レベルのときもあるし、無意識レベルのこともあるんだろうな。

 

 

などと考えていたら

 

この仮説が

我ながら面白くて

残しておきたくなったので書いてます。

 

なので

あくまで記録用。

 

 

あとで振り返って

 

こんなこと考えたことあったのね〜私、

 

と懐かしむ為に書いてますw

 

 

 

忘れないうちにかけて良かった!

 

(なにしろすぐ忘れちゃうの)

 

 

 

ココまで読んでくださったあなた。

 

私のしょうーもない仮説におつきあいくださり

ありがとうございました!

 

 

感謝♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ざっくりすぎる!)

 

 


 

批判する人は

本当は助けて欲しいんだろうけど。

 

素直に、正直に

「助けて欲しい」って言えないから

 

代わりに

「政府は、国は、仁さん(笑)は何をやってるんだ!?」

って批判することになるのかな?

 

 

どこもそれなりに大変だろうし、

 

こんなときこそ

自分にできる事を探してやってみたらいいよね。

 

 

 

 

仁さんの応援しようとする姿勢。

 

わたしはホントに素晴らしいと思うし

感謝と敬意で頭が下がる想いです。

 

キングコングの西野さんも

ものすごく現実的に

できる事をしておられて

 

こちらもその行動力に

尊敬しかないです。

 

 

 

文句ばっかりいって

1ミリも動こうとしないヤツ。

 

そういう生き方もあり、

そういう人生もあり、だとは思うけど

 

心の底では

心配で、不安で、怖くて、心細くて

 

本当は

誰かに助けて欲しくて震えているのかもしれないなぁと

 

そんなことを思ったりします。

 

 

 

 

「助けて」

なんて、そんな弱虫発言するくらいなら

 

「どいつもこいつも」

と、批判している方がマシなんでしょうね。

 

 

十人十色。

人生いろいろですしね。

 

 

私は、

仁さんは愛の人だと思っているので

 

文句だけ言ってるひとより

仁さんに1票いれたいと思っています。

 

 

 

仁さん、がんばれ!

 

(って別にわたしの応援いらないか、笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今。

リビングのフォームが終わって

少しずつモノを戻してるんだけど

その時も

「思いきって捨ててね」

的な事を説教ぽく言ってるのを聞いて思った。

 

「お前もな!」

 

夕方。

 

買い物から帰って来て

おもむろに階段下の物置を片付け始めた私。

 

目的は

廊下においてある新聞たちを

物置に片付けてしまって

スッキリさせたかったからなんだけど。

 

その物置には母の花瓶が

わんさかとある。

 

わんさか!

 

全部すてたろか!

と思うけど

 

とりあえず

全部だして

 

「こんなにあるんだぞ!」を見せつける

いつもの作戦に出た。

 

なにしろ

「うちにはない」

とか

「持ってない」

とか

すぐ

「ない」って言うの。

 

こんなにあるのに!!!

 

 

 

だからまず、

 

 

 

「ある」を認めさせるために

全部だして視覚化させ

「こんなにある」を見せる。

 

 

全部出してから母を呼び

ひとつひとつ

「これいる?」と聞いて行く。

 

「jはい、いります」

「これも、いります」

しまいには

「みんないるわよ!」

とイライラしながら叫ぶ母に

 

「みんなとか言わないの!

ひとつひとつちゃんと見て!」

 

辛抱強く

ひとつひとつ

「これは?」

「これはどう?」

と聞いて行くと

 


諦めたのか

自分と向き合う覚悟ができたのか

 

ぽつぽつ

「それはいらんわ」

「これもいらんかな」

と言うように。

 

結果2割弱減り

物置に戻してみたところ、

物置の外においておくしかなかった

新聞たちを入れるスペースが出来ました♪

 

ミッションクリア♡ラブラブ音譜ラブ

 

 

 

 

 

 

 

 

今日はお休みだったので

 

昨日から

明日は絶対ダラダラ過ごしてやる!

 

と決めていたこともあって

目が覚めても

お布団のなかで

ゴロゴロしていました。

 

 

そうすると

母の父への言葉が聞こえて来て。

 

「ここ、8じゃなくて3じゃない。

違う人の家に電話したんじゃないの?

間違えたら迷惑でしょ。

ウンタラカンタラ」

 

そのあとかかって来た誰かからの電話にも

「迷惑だからやめておけって言うんだけど聞かなくて。。」

とか

「こんな時期なのにでかけていないの。

家にいるべきなのに本当に自分勝手で」

とか

 

どうやら父への不満

というか

自分の思う通りにならないことを

ぐちっているようでした。

 

私は子どものころから

ずっとふたりのウンザリするような会話を

聞かされて育って来て

 

私的には

「母が間違っている」

と思っているので

 

それを聞いて私は

「お父さん、いくつだと思ってるのよ

「あと元気なのも10年くらいでしょうが。

好きにさせて上げなさいよ。

 

人に迷惑かかったとしても

たいした迷惑じゃないわよ。

それに

やりたい事をやる為に生まれて来てるんだから。

お父さんは

お母さんのいうことを聞く為に生まれて来たわけじゃないんだから。

 

おかあさんは

お父さんを思っての発言だとは思うけど

 

本当にお父さんを大切に思うなら

好きなように生きさせてあげてよ。

生きたいように生きさせてあげてよ!

 

って思ったとき。

 

は!ってしました。

 

これって

わたしが私に言いたい言葉なのでは?

 

 

 

わたしは

人に迷惑かけないように生きるために

生まれて来たわけじゃない。

 

わたしは

やりたいことがあって

体験したいことがあって生まれて来たんだ。

 

わたしの

好きなように生きさせてよ!

 

わたしの

生きたいように生きさせてよ!

 

 

 

 

 

好きにさせろーーーー!!!

 

生きたいように生きさせろーーーー!!!

 

 

私の本性が

私の体の中で暴れてました。

 

 

 

母の言動は

わたしがさせてるのかもしれないです。

 

 

 

私が自分を自由に生きさせてないから

母が父の行動を規制する

という形で視覚化させて

見せてくれているのかもしれないと思いました。

 

母が「私」

父が「わたし」

 

「私」が「わたし」を縛る、束縛する、見張る、規制する。

 

「私」は本能で、「わたし」は本性。

 

「私」は肉体を存続させることが最優先で

「わたし」は望みを生きることが最優先。

 

 

葛藤するのはある意味当たり前だよね。

 

 

でも、そろそろ

望みを生きたいって思ってるんだよね。

 

わたしを押させつけず

わたしを解放して生きたいなぁと思ってる。

 

私は

わたしの可能性を諦めたくないんだよね。