私はこう見えて怖がりだ。

特にやったことないことに関しては
ビビりまくる。


側から見たら
へ?そんなことが怖いの?
そんなことでビビってるの?

っ思うこと。


で。

なんで怖いんかな?

と考えてみた。



いろいろ出てきたよね。

うまくいかなかったらどうしよう?

てか、
そもそもできるかどうかわからない。

できんかったら凹む。
がっかりする。




ああ、そうか。

私は、わたしにがっかりしたくないんだ。

って思った。


私はわたしのことが大好きだから
大好きなわたしのことをがっかりしたくないんだ。

ということは、つまりだ。

わたしはわたしのことが好きだから、なんだな。



これってお母さん目線だよね。


子供が失敗したりうまくいかなかったとき
がっかりしたり、落ち込んだ姿を見たくないから

そんなことしてはいけません。
やめておきなさい。
そうやって
自分が未経験のことをしようとしたり

自分が過去に失敗したことを経験させてくなくて
禁止する。


お母さんは、子供の命を守るのが仕事だから

そして自我も
私の命を守ることが仕事だから


だから
やったことのないことには恐れを感じさせて
やらないように仕向ける。

なんだ。
怖れの原因は愛なのか。

怖れは、愛から生まれているんだね。


そう気づいたら

ふっと心と体が緩んだ。


ゴールデンウィークあけまで

緊急事態宣言が全国に出されていますが

 

ゴールデンウィークが明けたら

コロナ騒動が収束に向かっていた、、

思ってる人って

どのくらいいるんでしょう?

 

もちろん、

そうであって欲しいと

願っている人は大勢いると思いますが

 

実際は

どうかなぁ

わからんなぁ

楽観視していない人のほうが大半なのでは?

 

新薬が完成するまで

1年くらいかかるといいますし

 

長期戦

と覚悟して臨んだほうが現実的な気がしています。

 

そうはいっても

私達も日々の生活があるわけで。

 

国も会社も

できるだけのことはしてくれると思いますが

 

頼りっぱなし

寄りかかりっぱなし

では、

 

頼られるほうも

寄りかかられるほうも

 

いつかは限界が来るかもしれなくて。

 

 

助けがある間に

自分でなんとかできる事がないか

試行錯誤

しておいたほうがいいかもしれないな

と個人的には思っています。

 

 

余裕があるうちにやって置いた方が

いいなぁと思うんだけど

 

ビビリな私は

実践できずにいます。。

 

 

いくじなしで

弱虫で

先延ばしすることが得意で

 

まじ、凹む。。

 

あー

でもこれが私と受け入れ諦める。

 

ぽんこつすぎて

情けないから

今日はもう寝てしまおう。

 

言いたかった事は

長期戦になるかもしれないから

コロちゃんと共存していくくらいのつもりで

何事にも取りかかった方がいいよって

ことでした。

 

 

 

人に言ってないで

まず自分がやることやれよ。

 

最後に自分で自分に突っ込んでみました。

 

 

よんでくれてどうもありがとう。

 

 

 

 

 


モンモンが止まらず。

 

友達たちにラインした。

 

 

聞いてー。

相談に乗ってーと。

 

 

そしたらこんな返事をもらった。

 

「それっていい方にいってたヤツじゃなかったっけ?

Mayumi神が「問題」と見れば

ずっとそこに「問題」として居続けるよ。

本性と自我が握手できればいいけど

なんでもかんでも統合して

手放すことが簡単にできるわけじゃないし、

こだわりすぎると

手放さねばに躍起になるし、

できないと自己嫌悪するから逃げる。」

 

 

これを読んで

私は、確かに!と思った。

 

3月くらいにある問題が起きて

組織と体制を見直すことになった。

 

これは私にとってはかなり嬉しい変化。

 

来月には変わる予定。

 

でも、私は、しんどくて限界に来てた。

 

彼女からのラインの返事を読んで

私は自分に聞いてみた。

 

「本当はどうだったらいい?」

 

そしたら

「仲良くして」

だった。

 

 

「相手のできてない所を見つけて

勝とうとしないで。

 

良さが違うんだから

お互い認めあおうよ」

 

って、思った。

 

 

私の本音は、

「仲良くして欲しい」だとしって

なんかウルッとした。

 

 

それ伝えたら

「いい方に行ったのもちょと詰まったのも

Mayumi神が創った現実だけど

つまづいたのがダメなんじゃなくて

どっちも創造できるチカラが

Mayumi神にあるってこと。

私達、いっぱい迷っていっぱい勉強しているから

答えは知ってる。

いざ本番の課題が出たとき、

一瞬ひるんだだけだよね。

それをシェアして遊んでる。

あるあるだね」

って。

 

 

もう降参ってかんじだった。

 

3次元の私が悩んでても

大元からみるエンタメだ。

 

私が困ってるのを

楽しんで見てる。

 

 

そうだった。。

 

 

私が大元と同調するとき

すべてはドラマで

すべては幻だ。

 

私が現実に張り付くとき

それは、問題となる。

 

 

なんてこと。。

 

 

 

 

それを思い出したとき、

 

急にあほらしくなった。

 

 

 

私のすることは

目の前の「問題」を解決する事じゃない。

 

 

いまここに意識をおくこと。

 

呼吸と通じて大元と同調すること。

 

 

 

落ち着こう、

リラックスしよう。

 

私の内側が平和であれば

外もそのうち平和になるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

不良社会人がいるんですよ。

気に入らないと早退する。

体調不良と言って有休とる。

ポリシーがあるから
会社のいうこともあんまり聞かない。



急に休むことも多いので困ることはたしかにある。


イラッとすることも多いし
なんなんこいつ
と思うこともあるし
扱いが難しくて困ることもある。



でも、
そんな彼を
どこかで

おもろいと思っている私もいる。


ただ。
いわゆる優等生タイプから見た彼の言動は

困った人
自分勝手
和を乱す
ひとのことを考えない

などというレッテルを貼り
見張る。


「○○さん、
あの人ずっと△な場所に4時間もいます。」
わざわざ報告に来る。


は?
それで?
 


どうも
サボっていると言いたいらしい。

ずっと見張ってるあなたもサボってませんか?
と言いたい気持ちになった。


あーそーなん。

興味なさそうに返事して放置したら
今度は別の人にチクリに行った。



たしかに
彼の行動は組織には不向きだと私も
思う。

急に休まれることが多いと
仕事を任せにくい。
信用できない。
自分というものをしっかり持っているので
頑固だし、ゆうこと聞かない。

負けるの嫌いだし、承認欲求もハンパない。

子供か
と思うこともよくある。


でも、
正直だと私は彼を見て思うんだ。


やだ、やりたくない。
あいつ、嫌い。
気分悪いから帰る。

平気でそんなことをいうし、やる。

大人として社会人としてどうかと思う気持ちも非常にわかる。


でも。

優等生ずらして

あの人今日もサボってます。
この間は、こんなことしてました。
みんながやってるのに、あの人やってませんでした。


言ってることは間違ってないし、正論だと思う。

思うけど、
嘘っぽいともおもってしまう。


なんで
そんなにその人のこと気にするん?
なにがそんなに気に入らないの?


本当は?

本当は
羨ましいんじゃない?

本当は、ずるいな、いいなって
どこかで思ってるんじゃない?


自分が
そんなことをしていけないと禁止してることを

目の前でしゃあしゃあと何度もされて
ざわついてるってことは

本当は自分もそうしたいからじゃないの?



目の前で繰り広げらるこの出来事をみて

ふと
本性と自我の戦い
と思った。



本性と自我は
対立しやすい気がしてる。

ということは
この二つは同じものの中の両極にあるものか?


ならば私のやることは
ふたつの統合だ。

どっちも否定しない
どっちも受け入れる。

この二つが協力しあえるにはどうしたらいいのだろう?

私の中の本性と自我を握手させればいいのかな?

そんなことを
ちょっと考え中です。




誰かの言動に激しく感情が動く時、
そこには抑圧された自分の本心が隠れているかもしれない。


例えば。

私は、怒る人が嫌いだった。
カウンターで店員に怒鳴っている人とか見ると

あほか
とか
子供か
とか
恥ずかしい
とか

そんな感情が湧いて

あーゆー人きらい
って毎回思ってた。



でも、
最近はこんなことを思う。


もしかして、
私はその人のことが羨ましいのか?

もしかして、
私もあんな風に怒鳴ってみたいのか?

もしかして、
ずるいとか思ってるのか?

本当は
いいなぁ、とか思ってるのか?

本当は、
私も怒鳴ってみたいとか思ってるのか?




まさか!

いやいや!

んなわけない!




私は
自分の感情が動いた時

特に抵抗の感情が動いた時
それは
自分にとって禁止していることを目の前でされた時に激しく反応するのかもしれないと思っているので


そういう状況になった時には
許可してみる
ということをしている。

先の例で言えば
「私も怒鳴っていい」


大抵恐怖が出る。

怒鳴ったらだめでしょ
そんなことしたら
大変なことになる。

怒られる。


誰に?

大抵は
「お母さんに」だ。


感情に任せて怒ってもいい、怒鳴ってもいい。


そう何度もつぶやいて
自分のブロックを
外していく、ということをする。

となると、だ。


他人様は
自分のブロック発見機でしかなくて

いうなれば
センサーの役目でしかなくて。

そうなると
目障りで、気に触る他人様は
自分の価値観の偏りを知らせてくれる 親切な人
ってことになる。

私の中の現実創造の仕組みの一つに
「未来は創るもの、というより
選ぶもの」
というのがあって。


価値観が偏っていると
選択枠が狭くなるんですよ。

選択枠が広がれば
未来の選択枠も広がるわけで

それは自由度の高さでもあって。


これとこれから選んでください
と言われるより

なに選んでもいいんだよ
って言われた方がときめきませんか?


開放感が違いますよね。


遠慮して
我慢して
妥協して
偏った価値観で選んだ未来と


遠慮せず
我慢せず
妥協しないで
自由な心で選んだ未来と


どちらが満足度の高い未来になるんでしょう?


現実創造って
実は
自分の選択で決まるって

当たり前すぎて
きがつかなった私ですが

それに気づけば
どんな選択が満足どを高めるか


それは
自分が一番わかってるし
自分が一番体感できる部分です。


頭でなく
ハートで選ぶ

頭でなく
体の反応で選ぶ。

そうすれば
満足度の高い未来は
きっと手に入るのではないかと

そんなことを
思っております。