1941年12月16日、戦艦大和就役!!その雄姿を目にした者はド肝を抜かれたやろ、きっと!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

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当面の間冒頭にこのお知らせを載せることにしました。

 

 

 

1937年8月、海軍は今後米英が建造しうるであろう

 

戦艦を上回る、超ド級戦艦の建造に着手します。

 

  18インチ砲(46センチ砲)を装備する化け物のような艦です。

 

建造は呉海軍工廠が担当しました。

 

 

 

 

 

 

この建造を米英に悟られないよう

 

秘密保持が徹底されます。

 

 

1940年8月8日進水。

 

ここからわずか1年4ヵ月で艤装完了。

 

これはこれだけの大きさからして異例の速さです。

 

 

 

呉工廠で最終艤装中(1941年9月20日)

 

1941年10月18日、高知県宿毛湾沖で全力予行運転実施

 

 

 

強風で荒れる海の中、

 

速力27.4ノット(約50.7km/h)を記録。

 

 

 

続いて30日の宿毛湾で、全力公試27.46ノットを記録

 

 

 

この光景を目撃した住民やったか、

 

この画像を撮影した艦の乗員やったか

 

ど忘れしてもたけど、

 

「山が動いとる!!」と

 

目を丸くして驚いたそうです。

 

 

 

そして1942年6月の竣工予定が、

 

開戦直後の1941年12月16日に就役と

 

半年も工期を短縮しています。

 

 

初期の大和型には、

 

45口径94式46cm3連装砲3基の他に

 

  副砲に60口径3年式15.5cm3連装砲塔が

 

4基搭載されています。

 

 

 

 

こちらは2番艦武蔵の艦首から撮影した画像

両舷中央に副砲2基が見えます

 

 

 

この頃は敵艦の射程外から砲撃を開始し粉砕する

 

アウトレンジが艦隊決戦の主力となる発想がありました。

 

しかし時代は大鑑巨砲から航空機へと変化。

 

1943年5月にトラックから呉に帰投し

 

電探装備と共に行われた以降となります。

 

さらに12月末にトラックに向かう途中

 

敵潜の魚雷1本が主砲3番砲塔右舷に命中。

 

1944年1月に呉に帰投した際ここの修理の他

 

両舷副砲を撤去し、 あの“ハリネズミ”のような

 

対空兵装を増強したのはこの時からです。

 

 

 

 

 

 

これだけの対空兵装を増強したにもかかわらず

 

1945年4月の天一号作戦では、

 

敵機の来襲を振り払うことが出来ず

 

最期は大爆発を起こし沈んでいきました。

 

 

 

 

 

 

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