第10軍司令官バックナー中将は、第32軍司令官牛島中将に降伏勧告の書簡を密かに送ってた!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

沖縄を攻略した部隊の最高指揮官は、
 
第10軍司令官
 
サイモン・B・バックナー・ジュニア陸軍中将。
 
彼は1886年7月18日、ケンタッキー州に生まれ
 
父親は南北戦争時の南軍の元将軍で、
 
彼が1歳の時にケンタッキー州知事に就任しています。
 
政治家である父親の人脈で、
 
セオドア・ルーズベルト大統領
 
に可愛がられ、
 
陸軍士官学校に入学を果たします。
 
 
 
左からスプルーアンス・ニミッツ・バックナー
陸海軍司令官のそろい踏み
 
 
 
暫く士官学校の教官などの後方勤務を続けていましたが、
 
大東亜戦では、1943年のアッツ・キスカ島の戦いに参加。
 
1945年、バックナー中将は
 
沖縄方面連合軍最高指揮官として
 
第10軍司令官に任命されアイスバーグ作戦を指揮。
 
 
 
一方沖縄を守備する
 
第32軍指揮官は、牛島満陸軍中将。
 
彼は1887年7月31日鹿児島生まれ。
 
彼の父もまた薩摩藩士出身の陸軍中尉で、
 
やがて陸軍士官学校に入校します。
 
支那事変以降大陸で活躍後、
 
陸軍士官学校校長など教育端を歴任。
 
1944年8月、第32軍司令官に任命されます。
 
 
バックナー司令官とは年も1歳しか違わず、
 
生まれた環境経歴においても
 
似通った経験を持ってますね。
 
 
 
 
 
 
沖縄戦においても、バックナー司令官は
 
海軍のニミッツ提督から
 
「作戦指導が消極的」と批判を受けており、
 
牛島司令官も敵を内部に引き込み
 
暫時殲滅と言う作戦を大本営から
 
「消極的」と圧力をかけられたとこまで似ています。
 
 
 
バックナー司令官は
 
アイスバーグ作戦を準備するにあたり
 
沖縄県民が戦闘に巻き込まれるのを
 
心配していました。
 
そこで投降のビラを作成させています。
 
 
4月1日の本島上陸以降、
 
これまでにない激しい抵抗を受け
 
犠牲を数多く出していますが、
 
日本軍を南部に追い込み、
 
国吉方面まで進出した時に
 
これ以降は“掃討戦”と、
 
沖縄での戦いの勝利を確信したそうです。
 
米軍は特に情報戦に力を入れているので、
 
当然第32軍の事についても、牛島中将・
 
長参謀長・八原高級参謀についても
 
相当調べ上げてたはずです。
 
 
バックナー司令官の脳裏には、
 
これ以上兵を失いたくない
 
と言った考えももちろんですが、
 
牛島司令官の軍人としての価値も認めつつ
 
何とかして降伏に持ち込みたいとの
 
思惑があったに違いありません。
 
 
そこでバックナー司令官は
 
自ら降伏勧告の草案を作成し、
 
わざわざ日系兵士を呼び寄せ、
 
その勧告文を日本語に訳させ
 
6月10日、牛島司令官宛てに
 
この降伏文書を発信しました。
 
 
その内容は以下の通り
 
 
敬愛する第32軍司令官 牛島満中将閣下へ、
 
衷心より降伏を勧告いたします
 
  ① 閣下の部隊は、勇猛果敢によく戦かわれました。
 
    又、閣下の指揮ぶりには、我々の賞賛するところであります。

      ② 閣下と私は、軍歴においてその長きにわたり、歩兵の戦術を学び、
 
    研究し、研鑽を重ねてきた、同じ歩兵畑の将帥として、
 
    密かに心を寄せてまいりました。
 
    しかるに、閣下の軍隊は今、悲惨な状況に置かれ、
 
    援軍の望みのないことは、ご承知の通りです。
 
    ゆえに、日本軍の敗北は、もはや時間の問題と考えます。
 
    これ以上の抵抗は、大部分の将兵を失うことになり、
 
    このことは、閣下も御承知の通りです。
 
  ③ 現在我が米軍は、沖縄本島全域をほぼ押さえ、
 
    既に、日本本土への空爆基地として活用されています。
 
    閣下の使命は、日本本土防衛のため、本島の航空基地の使用を
 
    阻止することと考えますに、既に閣下の役割は終わっておられます。
 
    これ以上の抵抗は、本土防衛上無意味であり、
 
    終戦後日本の再建を担うために、最も必要とする若者たちを、
 
    無駄に死なせてしまうことになります。

  ④ 指揮官たるものは、常に部下の将兵の幸せを考えねばならぬことは、
 
    歩兵の将帥として、閣下は理解されておられると思います。
 
    既に勝敗が決定されている戦においては、
 
    将兵の命を救うことが、将帥の執るべき使命でもあり、
 
    尊敬に値するものであると考えます。

  ⑤ 私は、勝利を確実にするまで、攻撃の手を緩めません。
 
    しかしながら、我がアメリカ合衆国は、世界の民主的で、人道的な
 
    文明国の一員として、勝敗の決している戦において、
 
    相手をせん滅させることは望みません。
 
    よって、閣下は直ちに休戦の交渉に入るべきと考えます。

  ⑥ 既に私は、閣下と交渉する準備を整えております。
 
    交渉には、下記のように対応願いたい。
 
    本書面を受け取られた翌日の、午後6時に貴殿の陣地内の、
 
    最も西海岸に近い場所で、地上及び空からよく見えるように、
 
    白旗を大きく掲げて下さい。
 
    同時に、6名以下の代表者を寄こして下さい。
 
    代表者は、直ちに我が司令部に案内し、
 
    そこで名誉と秩序をもった休戦案を提案いたします。
 
    又、閣下からの提案は、貴殿の名声及び、
 
    階級を尊重した取り扱いをいたします。

  ⑦ 閣下は、日本の戦国時代に落城の前に城兵を救うために、
 
    城主がとった行為を想起する必要はありません。
 
    閣下は、人道的に、将兵を救う道をとるべきと考えます。

  ⑧ 尚、この電文の公式の書面は、英文によるものです。

         1945年6月10日

                   第10軍司令官 サイモン・バックナー

     第32軍司令官 牛島満中将殿
 
 
 
太平洋各地で米軍の司令官が
 
日本軍の司令官を
 
褒め称えることはありましたが、
 
このように文章にして
 
親書として敵の将に渡すなど
 
前代未聞の出来事です。
 
 
これほど“牛島を敵にするとやっかい”と
 
恐れたのかもしれません。
 
この降伏勧告は17日に司令部に届けられます。
 
しかし牛島司令官は一笑するのみ。
 
日本軍には“降伏”の二文字など
 
存在しませんでしたから。
 
 
翌日の18日、バックナー司令官は
 
前線視察に真栄里に赴きます。
 
日本軍はバックナー司令官の
 
動向をよく把握してたようで
 
それまで視察地への砲撃を
 
何度か繰り返してきました。
 
この日は野戦重砲兵第1連隊第2大隊の
 
九六式十五糎榴弾砲の砲撃が
 
至近弾となり中将は戦死してしまいます。
 
 
 
 
九六式十五糎榴弾砲
 
 
 
18日は真栄里の独歩21・23連隊が
 
極めて劣勢に立たされたため
 
喜屋武の独歩22連隊が救援に駆けつけ、
 
西側ががら空きとなった頃でした。
 
東側は62師団が敵を押し戻そうとしましたが
 
これまでの戦闘で師団の能力は中隊もしくは
 
それ以下まで消耗してたので逆に
 
壊滅的打撃を受けてしまいます。
 
かくして摩文仁は包囲され、
 
23日の牛島司令官他の自決に
 
繋がってしまいます。
 
 
 
この慰霊碑は日本軍関係者などにより
1985年に建立されました。
 
 
摩文仁32軍司令部壕跡
 
 
 
 
 
牛島司令官は首里を撤退する際、
 
米軍に軍使を送り
 
知念半島へ住民を避難させるので、
 
ここを非武装地帯にして欲しいと要望し、
 
バックナー司令官はこれを了承しています。
 
このように島田県知事とよく協議し、
 
住民の安全を確保できるよう
 
気を配っておられましたが、
 
島尻での戦闘の際はもはや戦局が
 
それを許さなかったのでしょう。
 
牛島司令官の性格からして、
 
南部に避難した住民の事を考えると
 
バックナー司令官からの降伏勧告は
 
受け入れてもおかしくないでしょう。
 
また米国の事をよく知る
 
八原高級参謀がそばにいるのですから
 
イケイケの長参謀長を押さえつけてでも
 
受け入れることが出来たかも。
 
 
 
この機を逃したお蔭で、
 
住民は本島最南端で行き場を失い
 
数千人は絶望してしまい喜屋武岬から身を投じ
 
海は真っ赤に染まったと聞きます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
またひめゆりをはじめとする
 
女子学徒隊は解散を命じられ
 
井原第一外科壕等で馬乗りにより
 
爆死するか、自決の道を選びます。
 
 
 
 
 
 
沖縄での組織的戦闘は23日で終了しますが、
 
残存する兵力はその後2か月にわたり、
 
苦しい苦しい戦いを続けてゆきます…。
 
 
この出来事ははるか昔ではなく、
 
ほんの77年前の悲劇でありました。
 
 
 
 
いつも御訪問戴きありがとうございます
ブログ村ランキングへの入口を
ここにも設けてみました
下矢印のクリックをお願い出来ますでしょうか