1945年5月25日、敵はついに首里東部にまで侵攻してきたゾ!どないしよ!?の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

4月1日に読谷・嘉手納に上陸した敵兵力約10万は、
 
嘉数・シュガーローフでの激戦を経て
 
首里近くまで南下してきました。
 
 
 
 
 
 
第32軍は、5月4日~5日にかけて攻勢移転に転じ
 
敵を普天間辺りまで押し戻す計画を立てます。
 
温存してた砲兵隊による数千発に及ぶ砲撃と
 
第24師団と戦車第27連隊を投入します。
 
 
 
 
 
 
しかしこの作戦は本土からの航空支援を得られず、
 
(菊水五号作戦・第六次航空総攻撃の実施はあった)
 
敵は観測機による砲兵陣地の割り出しに成功し、
 
圧倒的火力により友軍砲兵隊を沈黙させていきました。
 
 
援護支援のないまま突入した攻撃隊は敵の返り討ちにあい
 
全滅に近い損害を出し作戦は失敗に終わります。
 
 
 
 
 
 
首里北側及び北西部へ侵攻してきた敵に対し
 
大名高地を中心として
 
独歩15大隊・22大隊・23大隊などが奮戦しますが
 
戦車を伴う有力な敵の猛攻に21日には陥落しました。
 
しかし110m高地・55高地は撤退命令が伝達される
 
30日まで持ちこたえています。
 
 
 
 
大名高地
 
平良北側高地
 
石嶺高地
 
55高地
 
 
 
同様に石嶺高地も20日辺りには兵力が消耗し
 
こう着状態に陥ります。
 
 
 
西部130高地(チョコレートドロップ)へ
火炎攻撃をするM4戦車
 
 
 
首里西部の安里52高地(シュガーローフ)では
 
両軍の壮絶な争奪戦が繰り広げられ
 
ハーフムーンが未だ墜ちずに抵抗を続けてるため
 
敵は那覇に迂回しだします。
 
 
 
シュガーローフ(上)と、ハーフムーン(下
 
 
 
衛星画像で確認してみましょう。
 
 
 
 
 
 
 
第32軍司令部の首里より西側の
 
安里52高地(シュガーローフ)、北側の大名高地、
 
東北の石嶺高地が墜ちました。
 
 
独歩14大隊が死守する
 
宇地泊ー嘉数ー我如古ー南上原ー和宇慶の防衛ラインは
 
4月24日に突破され敵はさらに南の運玉森に迫り、
 
5月4日~5日の総攻撃失敗直後から布陣している
 
歩兵第89連隊に攻撃を仕掛けます。
 
 
 
2004年12月、
 
西原町幸地集落南西部の陣地壕跡から
 
九六式十五糎榴弾砲が発見されました。
 
 
 
 
 
 
位置からして、嘉数ー西原ラインや
 
前田高地の第2ラインを突破した敵に対し
 
砲撃したのではないかと思われます。
 
 
130・140・150高地を攻撃した敵により破壊されたものか
 
自ら破壊した後、撤退したものなのかは不明です。
 
 
この三高地に布陣した歩兵第22連隊は約3500名でしたが
 
度重なる戦車を伴う攻撃と馬乗り攻撃に次第に消耗し
 
5月20日には150高地の伊東大隊などは大隊長以下25名
 
という状況にまで陥ってしまいます。
 
 
 
 
150高地
 
 
 
運玉森方面においては5月7日に我謝付近に敵が侵攻して以来、
 
約3週間に渡り抵抗をつづけ第32軍の首里撤退の29日をもって
 
同部隊も南に下がったのでした。
 

 

 

運玉森
 
 

 

ここまでの戦いにおいて多大なる犠牲を払いましたが、
 
敵の出血の強要も成功をおさめ
 
約26000名の死傷者をもたらしました。
 
また積極果敢な攻撃により敵戦車も約300輌破壊しています。
 
 
 
 
 
 
ここまで果敢に攻め込んできた敵もさすがに疲弊し、
 
首里手前で空からの補給により水・食料・弾薬の
 
補充を受け、第32軍撤退に伴う残地部隊の攻撃も
 
散発的で、体力を回復していくのです。
 
 
 
 
 
 
安里52高地(シュガーローフ)を落とした敵は
 
東のハーフムーンに手こずっています。
 
そこで作戦を変え、那覇に進出し南から
 
首里を攻めることにしました。
 
 
安里川まで進出した敵は、
 
23日に現在のマクスバリュ付近で渡河を実施します。
 
 
 
崇元寺橋・蔡温橋は友軍の手によって破壊してますね。
 
 
 
 
 
 
牧志高地には迫撃砲陣地が反斜面に
 
構築されており敵に砲撃を加え、
 
敵が架けた仮設橋をも破壊してしまいました。
 
 
しかし敵は2個中隊の渡河に成功しており
 
24日には蔡温橋辺りに仮設橋の建設に成功して
 
戦車を渡すことに成功します。
 
 
しかし雨によってぬかるんだ道を進むことが出来ず
 
この時点ではあまり役には立っていません。
 

 

 
 
 
 
25日、敵は多くの犠牲を払いながら
 
牧志高地~壷屋まで進出してきます。
 
 
 
牧志高地
 
 
 
第32軍は運玉森が敵の手に落ちると
 
首里の防衛ラインが崩壊するのを
 
熟知していました。
 
そこでより長く敵を遅延させるべく
 
南部へ撤退することを
 
22日に牛島司令官は決断します。
 
 
迅速な撤退を行うためには首里東部は
 
なんとしても敵を食い止めねばなりません。
 
 
 
 
 
 
第32軍が南部撤退を決定したその日、
 
我謝を占領した敵がその勢いのまま与那原まで進出。
 
そして雨乞森高地を占領してしまいました。
 
軍の移動を急がねば退路を断たれてしまいます。
 
 
 
雨乞森高地
 
 
 
しんがりを務めたのは
 
歩兵第89連隊・海軍勝田大隊・独立第27大隊。
 
信長の小谷攻めの時の秀吉の心境だったのでしょうか。
 
 
 
 
幸いなことに梅雨の豪雨による道路のぬかるみで
 
敵は機動力が使えない。
 
25日現在、その間に軍主力の撤退準備と、
 
宮平ー与那覇ー与那原の防衛ラインの構築に
 
努力が傾けられ、敵の侵攻を食い止めているのです。
 

 

 
敵地上部隊への航空支援があればなぁ…。
 
 
 
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