義烈空挺隊の沖縄へ殴り込みは、まともな機体さえあればもっと多くが突入してたやろに…の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

5月24日19時頃、第三独立飛行隊の
 
九七式重爆撃機12機に搭乗した、
 
奥山道郎大尉以下、義烈空挺隊
 
136名は、熊本健軍飛行場を出撃し、
 
沖縄の敵占領地域の北・中飛行場を
 
目指し、強行突入を敢行。
 
 
 
 
 
 
内1機が北飛行場に胴体着陸に成功。
 
敵機7機を撃破、26機に損傷を与え、
 
航空燃料7万ガロンに火をつけました。
 
この攻撃で突入した空挺隊員と
 
飛行隊員全員が戦死。
 
米軍は2名が戦死、18名が負傷。
 
 
 
義烈空挺隊は、昭和19年12月
 
B-29戦略爆撃機の発進基地である
 
サイパン島アスリート飛行場攻撃を
 
主任務とし、隊長・奥山道郎大尉以下、
 
陸軍中野学校出身者10名を含む
 
136名で編成された精鋭部隊です。
 
しかし硫黄島方面の戦況悪化に伴い
 
作戦は実施されることなく見送られ、
 
隊員たちはただ「忍」の一文字で
 
訓練に励んでおられました。
 
 
昭和20年4月に始まった沖縄戦において
 
5月末に第32軍首脳は南部に撤退。
 
終盤戦を迎えつつありました。
 
 
また、連日繰り返していた特攻作戦も、
 
敵防空システムの前に
 
その大半が事前に撃墜され戦果は
 
ほとんど上がらなくなっています。
 
敵空母群も、占領した飛行場が
 
稼動したことから沖縄南方に移動。
 
そこで占領された北(読谷)飛行場、
 
中(嘉手納)飛行場制圧に
 
義烈空挺隊を突入させ、
 
一時的でも敵航空兵力を沈黙させ、
 
菊水七号作戦を容易ならしめんと
 
この作戦が立案されました。
 
 
 
義号作戦兵力以下の如し
 
          奥山隊 五個小隊(136名)
               第三独立飛行隊 九七式重爆撃機12機(32名)
 
          飛行場攻撃部隊
               第六航空軍 四式重爆撃機12機
               第五航空軍 九九双軽10機
               海軍戦闘機12機
               海軍爆撃機12機
 
          艦船攻撃部隊
               海軍雷撃機30機
               第六航空軍 特攻機100機
               海軍特攻機80機
               桜花10機
 
 
奥山隊・第三独立飛行隊以外は、
 
空挺隊突入を援護する目的に編成されます。
 
しかし、23日に九州東南海域において
 
敵空母群を発見。
 
海軍部隊はこの敵に対し攻撃目標を変更。
 
結局支援力を欠いたまま、
 
天候不順の合間を縫い
 
24日に決行が決まったんです。
 
 
 
 
 
 
 
隊員たちは当時珍しい一〇〇式機関短銃を所持し、
 
手榴弾10~15発を詰めた弾帯や雑のう、
 
破甲爆雷、二瓩柄付き爆薬などを装備しています。
 
 
 
 
九七式重爆撃機
 
 
 
 
1937年(皇紀2597年)採用
支那事変中期から実戦投入
 
乗員: 7 名 最高速度: 478 km/h
航続距離: 2,700 km 
武装:7.7 mm旋回機関銃×5
12.7 mm機関砲 ×1(後上方)
爆弾: 750 - 1000 kg
 
 
 
 
 
 
出撃前の熊本健軍飛行場にて、
 
第三独立飛行隊隊長諏訪部忠一大尉と
 
笑顔で握手する奥山隊長。
 
突入後は飛行隊員もともに
 
地上戦闘に参加する予定だった。
 
 
 
 
 
 
5月24日1850、
 
第三独立飛行隊所属の12機が
 
陸軍熊本健軍飛行場を出撃。
 
途中4機が発動機不調等により
 
作戦を断念し反転。
 
2210、奥山隊長機より
 
「オクオクオクツイタツイタツイタ」
 
の無電が入り以降不通。
 
 
 
 

北飛行場に突入したのは5機。

 
内4機が対空砲火により撃墜。
 
1機が胴体着陸に成功。
 
着陸と同時に約10名が飛び出し、
 
一斉に敵航空機の破壊攻撃に移る。
 
結局制圧され、撃墜された4機の搭乗者と
 
胴体着陸した機の空挺隊員合わせて
 
69名の死亡が確認されました。
 
一方中飛行場に向かった3機の
 
その後の記録は全く残ってないんです。
 
 
 

 
 
 
この作戦を成功させるため、健軍飛行場の整備兵は
 
懸命に整備されたことでしょう。
 
にもかかわらず離陸した12機の内、機体故障などで
 
4機が突入することなく引き返しています。
 
 
北飛行場攻撃隊6機の内1機が突入成功。
 
4機が対空砲火により飛行場まで
 
あと一歩と言うところで撃墜されました。
 
残る1機は海上に墜落したものと思われます。
 
中飛行場攻撃隊2機は米軍に記録がないことから、
 
この2機も海上に墜落したものと思われます。
 
 
おそらく機体のどこかに異常をきたし
 
帰るに帰れず沖縄に向かうが力尽きたのかも。
 
 
さぞ無念だったでしょう。
 
 
工場の熟練工は招集され、
 
代わりに勤労動員の子供たちが
 
兵器を作ってるのですから、
 
また平時なら検査に通らないものでも
 
強引にパスさせてたのですから、
 
前線の方たちはたまったもんじゃ
 
なかったでしょう。
 
 
 
 
 
 
せめてプロが造った機体があったなら
 
引き返す機もなく、
 
途中墜落する機もなかったでしょう。
 
彼らの無念が聞こえて来るようです。
 
 
 
◎菊水七号作戦
 
 
               24日 第十ニ航戦水偵隊(指宿)
               24日 菊水部隊白菊隊(鹿屋)
               25日 第九神雷部隊(鹿屋)
               25日 第十銀河隊(宮崎、美保)
               25日 第三正統隊(第二国分)
               25日 徳島第一白菊隊(串良)
 
 
 
水偵は、フロートを装着した海上・艦上から飛び立つ零観
主フロートがあるため胴体中央に爆弾を懸架できず
主フロートに25番をくくりつけた
 
24日特攻出撃した第12航空戦隊二座水偵隊
 
25日11時過ぎ、伊江島近海で高速輸送艦ベイツが
鹿屋・串良を出撃した白菊隊と思われる特攻機の
攻撃を受け、3機が命中しこれを撃沈
 
神雷部隊は、桜花を積んだ一式陸上攻撃機の部隊
 
 
 
いくら戦局が許さなかったとはいえ、
 
こんなもので零戦よりも高性能な敵戦闘機の
 
防衛網をかいくぐることは、
 
未熟な技量の特攻隊員には至難の業でした。
 
 
白菊隊が敵艦に突入できたのは、
 
義烈空挺隊が前日に読谷飛行場を
 
一時的に使用不能にしたお蔭なのでしょうか…。
 
 
 
25日、第二美保基地を出撃した第十銀河隊吉田湊飛曹長
空母瑞鶴でハワイ作戦、珊瑚海海戦に参加した熟練零戦搭乗員
 
読谷飛行場跡にある、義烈空挺隊玉砕之地の塔
 
義烈空挺隊慰霊碑(沖縄県糸満市字摩文仁)
 
 
 
義烈空挺隊玉砕之地の塔は、平成18年米国より返還された
 
読谷補助飛行場跡の北側に建立されています。
 
ここは、昔このような戦闘があったことなど
 
想像できないくらい静かに時間が流れています。
 
訪れる人もまばらで旧掩体壕のそばにあります。
 
 
 
 
 
 
勝敗が決し制空権のない沖縄に、
 
あえて突入する意義などあったのでしょうか。
 
それは私たちより、
 
奥山隊長自身が一番良く理解していたでしょう。
 
それでもあえてこの作戦に従事された、
 
義烈空挺隊・第三独立飛行隊の皆様の
 
崇高なお心に敬意を表するとともに、
 
ご冥福を心から祈らずにはいられません。
 
 
 
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