嘉数の戦いに想いを馳せながら、嘉数の戦跡を巡った時の事を少し振り返ってみよう!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

1945年4月の沖縄は嘉数戦の真っ最中なので、

 
嘉数をうろついた時のことを少し振り返ってみましょう。
 
 
 
嘉数高台公園は宜野湾市西の小高い自然林を
 
利用して造成された公園で、
 
嘉数での激戦を後世に伝えるため戦跡を残してあります。
 
 
嘉数高台公園へのアクセスは、車の場合、那覇空港から
 
沖縄自動車道那覇IC~西原IC・一般道で約25分。
 
 
空港から一般道を使用する場合、主に国道330号線を北上し、
 
浦添バイパス広栄交差点を左折。空港から約60分。
 
 
交通機関利用の場合、
 
ゆいレール那覇空港駅から古島駅下車。
 
古島バス停系統番号21・88・90・98で
 
 約20分。広栄団地入口バス停下車。
 
バス停から徒歩約5分。
 
 
 

 

 

 

展望台へは階段を進みます。
 
 
階段下の水色の壁は弾痕の塀。
 
戦前の嘉数は、
 
家屋敷や道路が碁盤状に整備され、
 
田畑に囲まれたのどかな集落でしたが、
 
敵上陸後は日米両軍の主力が
 
激しい攻防戦を繰り広げた場所となり、
 
住民はもとより、住みなれた家屋敷なども
 
大きな被害を受けました。
 
嘉数でも日米両軍の銃弾、砲弾が
 
雨あられのごとく降り注ぎました。
 
この弾痕の塀は、それを物語るものです。
 
 
 
 
階段の中間地点に案内板があり左に行ってみます
 
上まであがり左に行ってみます
 

 

 

朝鮮半島出身で犠牲になられた方を供養する青丘之塔と、
 
右側にあるのは島根の兵奮戦之地の碑。
 
 

 

 
さらにその右側には弔魂碑
 
そしてその奥には京都の塔と嘉数の塔
 
靖国神社から取り寄せた御神水を捧げます
 
 
 
京都の塔は、
 
京都府出身の将兵2530人余の鎮魂を願い
 
京都府市民によって建立されたものです。
 
 
嘉数住民は良く部隊を助け
 
陸軍を信頼し、敵を駆逐してくれると信じ
 
避難することもしませんでした。
 
結果嘉数の人口695名のうち343名が亡くなられ、
 
嘉数の塔は住民犠牲者への哀悼を込めて
 
1975年6月に建立されました。
 
 

 

そしてここの向かいの一段低い所にトーチカがあります
 
 
 
北側の比屋良川に向けて射撃するための
 
銃眼が2か所ありますが、
 
そちらの面はかなり破壊されています。
 
そうとう集中砲火を浴びたのでしょう。
 
 
 
 
 
 
トーチカ内には機関銃中隊が布陣しており
 
主に九九式軽機や九二式重機関銃
 
などが設置されました。
 
 
さぁ展望台に上ってみましょう。
 
 
 
 
北には牧港、さらにその向こうは読谷の海岸線
 
その少し右側には、普天間飛行場と、
時には整列駐機したオスプレイを見ることが出来ますよ
 
東には西原高地・我如古高地・142高地などが望めます
 
南西方向には、嘉数の戦いの後激戦となる前田高地の稜線
 
西には1944年9月に完成した
特攻機専用の陸軍沖縄南飛行場跡方面が見えます
 
 
 
このように嘉数高地は見晴らしも良く敵上陸前の
 
空爆・艦砲の爆炎からここに至るまでの各地の戦いなど
 
敵の進捗状況は非常によく観察できたでしょう。
 
 
 
嘉数高地を降りる時、西側のスロープを下ってみました
 
高台公園を後にし、周囲の戦跡を散策してみました
 
 
 
この公園から比屋良川に沿って遊歩道を進むと、
 
敵の火炎放射器で焼かれた跡を見ることが出来ます。
 
70年以上経過した今でも黒く焼けた煤跡が残ってます。
 
 
この比屋良川は嘉数渓谷とも呼ばれ
 
水面までの高低差が10m以上あるところもあって
 
敵が渡河に苦労してるとことへ
 
各反斜面陣地から迫撃砲弾が降り注ぎ、
 
敵はパニックに陥り一時は尻込みまでしてしまいます。
 
地の利を熟知した攻撃と言えますね。
 
 
 
 
 
 
高台公園をさらに西に進むと西部70高地があります。
 
 
 
画像中央が嘉数北側高地で、
右の稜線の少し盛り上がったところが西部70高地
 
 
 
この高地は元々嘉数ウチグスク遺跡があって、
 
戦後は開発が進み住宅や介護施設の
 
ぎのわんおもと園が建設されています。
 
 
 
 
 
 
その、おもと園入口右横に
 
六十二師団独歩二十三大隊慰霊碑入口
 
球一四二一二下田部隊慰霊碑入口
 
の立札があります。
 
細い階段を下りたところに慰霊碑が並立してありました。
 
 
 
 
 
 
西部70高地から少し南に下がったところに
 
嘉数ミーガーと言う井戸(?)があって
 
縦穴奥の横穴が住民・日本軍の防空壕です。
 
正面の林の少し奥にありました。
 
 
 
 
 
 
チヂフチャーガマは、ミーガーから南西に徒歩約10分。
 
奥行き100メートルの壕で住民の避難壕として使われました。
 
戦闘が始まり避難できなかった老人・女性・子供など
 
最大400名がここで避難生活を送ってました。
 
ただ湧水が湧いてるのが唯一の救いだったそうです。
 
 
 
画像は浦添バイパス連絡道路からの撮影
 
 
 
高台公園の東の道路と浦添バイパスが連結する交差点の
 
反対側の金網がしてあるところに嘉数野戦病院壕跡があります。
 
国道330号線拡張工事によりかなり破壊されました。
 
 
 
 
 
 
この野戦病院壕は、
 
第六十二師団石部隊野戦病院壕
 
として使用された所です。
 
 

 

テラガマも野戦病院壕同様、

 

国道330号線拡張で破壊されてしまい、
 
残された一部は崩落防止の支柱があります。
 
 
 
 
 
 
この嘉数戦跡は嘉数の対戦車戦の敵戦車進路に重なります。
 
 
 
戦跡画像に敵戦車進路を重ねてみましょう
 
 
 
嘉数戦の代名詞である嘉数の対戦車戦の面影は
 
どこにもありませんが、
 
野戦高射砲第81大隊布陣場所跡等
 
敵を待ち受けた場所に立ち
 
投入された戦車30輌の内22両を破壊した
 
“つはものどもが夢の跡”
 
に想いを馳せることも出来ました。
 
 
 
 
 
 
嘉数での戦跡巡りは、
 
レンタカーや観光タクシーを使うと
 
高台公園以外に駐車場がないので
 
徒歩以外に移動手段がありません。
 
往復は交通機関を利用し、ほぼ一日仕事でした。
 
 
いっそのことレンタサイクルでも
 
事前に調べて頼めば良かったと、
 
つくづく感じました。
 
 
 
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