1943年1月から海軍が運用開始した“運貨筒”ってなんやねん!?の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

1942年8月7日に敵が餓島に上陸して以来、
 
帝国陸海軍は総力を挙げて島の奪還に取り組みました。
 
その後的は戦闘艦艇に護衛された輸送船団から次々と
 
物資を揚陸したのに対し、
 
制空権・制海権を奪われた日本海軍は
 
輸送船団を沈められ、駆逐艦による「鼠輸送」、
 
潜水艦による「モグラ輸送」に頼るしかありませんでした。
 
 
 
 
 
 
鼠輸送が餓島に最接近するのは夜半のため、
 
往復の航行は昼間になってしまうので、被害が続出しました。
 
 
 
 
 
 
そこで輸送を駆逐艦から潜水艦に切り替えたのですが、
 
潜水艦が運ぶ量には限りがある上に、最接近の際には
 
浮上しなければならないといったリスクを伴います。
 
そこで考案されたのが『運貨筒』『特型運貨筒』などによる
 
輸送方法です。
 
 
 
運貨筒とは、
 
潜水艦にけん引されて、目的地付近で母艦から切り離され
 
その後地上部隊が回収する、動力を持たない特殊潜航艇。
 
 
 
 
 
 
母艦には伊38が使用されました。
 
 
 
 
 
 
特型運貨筒とは、甲標的甲型を改造し
 
魚雷発射管室を円筒形の物資収納室に換装し、
 
動力に八年式魚雷を使用した特殊潜航艇。
 
オリジナルの操舵席に定員1名が乗り込み操縦します。
 
 
 
 
 
 
当初はゴム袋やドラム缶に物資を入れ、
 
接近すると海に投げ入れ、それを陸上部隊が
 
大発に載って回収するやり方だったそうだが、
 
効率が悪いため、
 
物資を積載した運貨筒を岸近くで放し、
 
それを陸上部隊が大発で回収する方法に変わりました。
 
 
 
画像はサイパンにおける大発。輸送船とともに炎上しています
 
 
 
特型運貨筒は、甲標的母艦日進に
 
搭載されて餓島へと運ばれました。
 
 
 
 
 
 
敵は餓島の港湾を整備し、
 
輸送船団による大量物資輸送を可能にしましたが、
 
我軍はこのような運貨筒なるもので細々と輸送するしかなく、
 
餓島の将兵たちは次第に消耗していきます。
 
 
 
 
 
 
思う存分戦うことも出来ず散っていった
 
将兵の皆さんの事を思うと、涙が流れてしまいます。
 
さぞ悔しかったことでしょう・・・・。
 
 
せめて補給線だけでも確保して、
 
同じ散るなら戦闘で散らせてあげたかった。
 
大本営作戦参謀辻政信中佐は
 
わざわざ餓島まで出かけておいて、
 
いったい何見て、何を上層部に進言したんや!
 
 
 
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