サマール沖で敵空母を仕留めた金剛は、1944年11月21日敵潜の雷撃で沈んでしもた!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

敵の空襲を受け武蔵等を失った栗田艦隊は
 
1945年10月25日夜中にようやく
 
サンベルナルジノ海峡を抜け、
 
サマール島沖に差し掛かりました。
 
 
 
 
 
 
夜が明けた6時半頃敵空母群を発見。
 
これをハルゼーの主力と勘違いし
 
総力戦を挑みます。
 
 
しかしこの艦隊は第77任務部隊の
 
護衛空母群でした。
 
ここに至るまですべての艦上偵察機を
 
陸上に避難させたツケがやってきます。
 
 
戦艦部隊は7時頃相次いで砲撃を開始。
 
敵はスコールに逃げ込んだけど、後を追った
 
金剛に発見され、重巡部隊と砲撃を再開。
 
 
 
 
 
 
 
ガンビア・ベイが血祭りにあげられ、他に被弾した
 
護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツ
 
を砲撃してる最中に
 
他の空母には逃げられてしまいました。
 
 
 
ガンビア・ベイ
 
 
 
サミュエル・B・ロバーツ
 
砲撃を受けるホワイト・プレインズ
直撃はなく至近弾による負傷で済んだ
 
 
 
サマール島沖で金剛が消費した弾薬数は
 
主砲が三式通常弾98発、一式徹甲弾211発
 
とあります。
 
三式弾はこの後敵機の反撃にあった際に
 
多く発射されてるので、
 
敵空母には大半が徹甲弾の発射ですね。
 
 
徹甲弾は戦艦等の装甲の厚い艦艇に有効で
 
護衛空母のような戦艦に比べればペラペラの
 
装甲では突き抜けてしまいます。
 
直撃しても穴を開けるだけで
 
艦内で爆発しないので効果は薄いです。
 
 
 
 
 
 
そのせいでガンビア・ベイを沈めるのに時間を労し
 
他の護衛空母も取り逃がしてしまう結果となりました。
 
 
 
 
 
 
この後沖縄戦で使用されることになる
 
“桜花”もまたそうですね。
 
沖縄海域を警戒するレーダーピケットには
 
その多くが駆逐艦や護衛駆逐艦と言った
 
小型の艦艇で、重巡以上の艦艇は
 
内円に引きこもっています。
 
 
外円で発見した駆逐艦に
 
それまで練習機しか操縦したことのない
 
特攻隊員がいきなりロケットを点火し
 
練習機の3~4倍もの速度で突進するのですから
 
ほんのわずか手元が狂っただけで
 
手前に落ちたり、はたまた命中しても
 
駆逐艦ならいとも簡単に突き抜けてしまいました。
 
 
日本軍航空隊の中で800km/hを超える速度を
 
経験できたのは、運よく陸攻から切り離された
 
ほんの数名のみでした。
 
 
 
 
 
 
話が反れましたが、そもそも何の根拠もなく
 
ハルゼーの艦隊と誤認したことが間違いの元やった。
 
観測機の1~2機くらい温存しておき
 
ここで弾着観測にでも飛ばせておけば
 
この空母が護衛空母やとすぐにわかったものの。
 
雑魚の空母など駆逐隊にでも任せて
 
レイテに突入すべきでした。
 
 
 
栗田艦隊はレイテ突入に際し
 
繰り返し基地航空隊の支援を要請しています。
 
しかしながら敵機動部隊は4群に分かれ
 
保有機数は千機にも及びます。
 
基地航空隊は敵の空襲で壊滅的な
 
ダメージを負ってしまい、
 
栗田艦隊援護どころやなかったようです。
 
各艦の搭載機を地上部隊に送っても
 
どうせ空襲でやられるんやったら
 
ここで一か八かで偵察に飛ばすべきやったね。
 
 
 
 
 
 
敵空母を追って艦隊から吐出していた金剛は
 
大和からの集合命令を受け北上の途中に
 
敵機の反撃で至近弾5発を受け
 
燃料が漏れだしてしまいます。
 
 
 
 
 
 
 
栗田艦隊は幻の敵主力機動部隊を求め反転。
 
レイテ突入の機会は失われてしまいました。
 
戦線を離脱した金剛はブルネイに帰投。
 
 
 
 
 
 
しかし1944年3月30日、パラオ大空襲で
 
工作艦明石を失ってるので
 
本格的な修理は行えず
 
内地で修理することになりました。
 
 
 
 
 
 
大和・長門・金剛・矢矧・駆逐艦6隻の編成です。
 
11月16日ブルネイを出発。
 
 
台湾近海に差し掛かった21日0時頃
 
台風の暴風圏内に突入してしまい
 
艦隊の先頭に金剛が立ちます。
 
 
そこへするするっと近寄って来た潜望鏡が一つ。
 
シーライオンです。
 
こやつ暴風雨のなかよくも見つけよったなぁ。
 
敵ながらアッパレをあげよう!!
 
 
 
 
 
 
シーライオンは6本の魚雷を発射し
 
金剛左舷艦首と艦中央部に合計2本の魚雷が命中!!
 
あかん、あかんがな!!
 
戦艦は艦中央部は装甲が厚いけど
 
艦首部分は泣き所やねん。
 
武蔵もここに魚雷が命中したのが
 
沈没の原因の一つでした。
 
 
金剛はサマール沖で受けた至近弾による
 
装甲の破損個所近くに運悪く魚雷がヒットしたのも
 
沈没の原因でした。
 
 
金剛は被雷後わずか2時間で沈没。
 
艦長は被害を軽視し総員退艦を出さなかったので
 
艦長以下約1300名が犠牲になりました。
 
 
 
 
 
 
シ―ライオンは艦隊2番目を航行中の
 
長門をも狙いましたがこれは外れ
 
その向こうを航行していた浦風に命中し、
 
浦風は轟沈。
 
 
 
 
 
 
 
佐世保までもうちょいだっただけに残念やなぁ。
 
 
金剛は1913年8月16日竣工。
 
第一次世界大戦勃発が1914年やから
 
金剛の艦齢は30数年とかなりの年配ですね。
 
 
1928年〜1931年の第一次改装実施の際
 
降ろされた金剛のボイラーは
 
現在大和ミュージアムで展示されています。
 
皆さんレプリカや思てるやろけど
 
ほんまもんでっせ。
 
 
 
 
 
 
1942年10月13日~14日にかけて
 
榛名とともに餓島ヘンダーソン基地を艦砲射撃。
 
三式弾104発、徹甲弾331発、副砲27発
 
の計462発を叩き込む武勲をあげています。
 
 
 
金剛の慰霊碑は長崎県佐世保市東山町の
 
佐世保東山海軍墓地に建立されています。
 
 
 
 
 
 
佐世保東山海軍墓地には佐世保に鎮守府が
 
おかれてから太平洋戦争が終わるまでの
 
約60年間に亡くなった海軍将兵17万余柱の
 
霊が祀られています。
 
現在、合葬碑62基、個人碑437基があり、
 
年間を通じて慰霊祭が各艦船・各部隊ごとに
 
執り行われています。
 
 
 
 
 
 
 
 
当家の祖父は伊号潜に乗務していたので
 
戦後ここ佐世保東山海軍墓地や
 
呉の呉海軍墓地へたびたび足を運んでたようです。
 
多くを語らなかった祖父ですが
 
恐らく戦友のご冥福を祈りに
 
訪れていたのでしょう。
 
 
 
 
 
長迫公園(呉海軍墓地)
 
 
 
 
 
 
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