宇垣中将は、なんで玉音放送後自決せずに特攻を選択したんやろ!? の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

1945年、宇垣纏中将は
 
第五航空艦隊長官の役職にありました。
 
五航艦は九州方面を中心に本土防空を担うとともに、
 
沖縄の敵機動部隊への特攻を指揮していました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菊水作戦は、第一号(1945年4月6日-11日)から
 
第十号(6月21日-22日)まで実施され、
 
その後も終戦まで断続的に特攻が続けられ、
 
940機が飛び立ち2045名が戦死しています。
 
 
 

 
 
しかし菊水作戦の初頭から
 
各機材・人員・熟練搭乗員等の不足に苦しみ、
 
特に特攻隊員は訓練規定時間に満たない者も多く、
 
それでも出撃を命じたため戦果は
 
ほとんど期待できなかった。
 
 
 
8月15日早朝に宇垣長官は艦上爆撃機彗星を
 
5機用意するように部下に命じています。
 
 
正午に玉音放送を拝聴した後、
 
指揮所前には彗星11機と22名の搭乗員たちが整列しており、
 
「未だ停戦命令に接せず。多数殉忠の将士の跡を追ひ
 
特攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし」
 
戦藻録にこう書き残し、
 
最後の訓示後中津留大尉の操縦する彗星に乗り込みます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
写真には軍服から中将の階級を外し、
 
山本五十六から遺贈された短刀を
 
持参している姿が写っています。
 
 
 
  
 
 
出撃後、宇垣機からは訣別電ののち「敵空母見ユ」
 
「ワレ必中突入ス」と発信されたのが最後となりました。
 
 
 
 
 
 
夕刻、沖縄県伊平屋島海岸付近に1機の彗星が墜落した。
 
中からは操縦士と思われる若い将兵1人のほかに、
 
飛行服ではなく、階級章のない第三種軍装を着た
 
壮年1人の遺体が収容されました。
 
出撃前の写真から判断して、
 
これが宇垣長官の乗っていた
 
彗星だった可能性が高いとされています。
 
 
 
 
 
 
 
ではなぜ、最後まで沖縄に突入せず
 
ここに墜落したのでしょう。
 
一説には当初から特攻する意思はなく、
 
中津留大尉に命じて自決のために
 
あえてここに墜落させたのでは?
 
とありますが・・・。
 
 
それと、他の機はどうなったのでしょう?
 
全て海中に没したのでしょうか?
 
米軍の記録を探しましたが、
 
15日夕刻に敵機をレーダー捕捉し
 
迎撃機を上げた記録はありません。
 
 
 
 
 
 
 
玉音放送を正式な「停戦命令」とするのか、
 
16日16時に発せられた大海令第48号を
 
正式な「停戦命令」とするのか意見は異なりますが、
 
長官の行為は玉音放送後に
 
命令のないままに出撃したので、
 
戦死扱いされなかったのです。
 
 
 
 
連合艦隊司令長官小沢治三郎は、
 
8月16日朝に淵田美津雄航空参謀に対し、
 
「皇軍の指揮統率は大命の代行であり、
 
私情を以て一兵も動かしてはならない。
 
玉音放送で終戦の大命が下されたのち、
 
兵を道連れにすることはもってのほかである。
 
自決して特攻将兵のあとを追うというのなら
 
一人でやるべきである」と述べています。
 
 
 
第五航空艦隊長官宇垣纏中将(左)、
軍令部次長大西瀧治郎中将(右)
 
 
 
宇垣長官・大西中将、そしてミッドウェーで
 
空母飛龍と運命を共にした
 
第二航空戦隊司令官山口多聞少将は、
 
海軍兵学校40期の同期。
 
 
 
 
 
 
 
一方、神風特別攻撃隊の創始者である
 
大西瀧治郎中将は、16日渋谷の官舎にて
 
「自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝す」
 
とした遺書を残し割腹自決しています。
 
 
 
長官は小沢治三郎が言ったように、
 
なぜ一人で自決しなかったのでしょう?
 
長官の行為は遺族の非難も受けました。
 
この部隊の指揮を取った中津留大尉の父親は、
 
戦後のインタビューで
 
「何故宇垣中将は息子を連れて行ったのでしょう」
 
と強い憤りを表しています。
 
 
 
しかし、15日早朝長官は彗星を
 
5機用意するようにと言ったのに、
 
午後には11機が配置につき、
 
指揮所前には22名の搭乗員たちが整列しており、
 
そのことについて長官が問うと、
 
中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。
 
命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」
 
と答えたそうです。
 
彼らは強い意志で長官のお供をしたと考えられます。
 
 
 
特攻隊を送り出した各基地の上官たちは、
 
「貴様たちだけを死なせたりしない。我々も後に続く!」
 
等の言葉を別れの際に述べていますが、
 
そのほとんどの者どもは後を
 
追うこともなく戦後を生きています。
 
その場限りの“偽りの誓い”を述べ、
 
のうのうと生き恥をさらした将官に比べ、
 
特攻隊を生み出した将軍と、
 
それを送り出す任務に就いた将軍は、
 
彼らの一死ではその責任は
 
とれぬほど重いものではありますが、
 
特攻隊員の英霊に対し、
 
最後に“義”を通したものと言えます。
 
 

 

長官は戦後しばらくは靖国への
 
合祀はされなかったけど、
 
現在は祀られ遊就館の一角に
 
長官の常設展示がなされています。
 
 
また出身地の岡山県護国神社の境内に
 
「宇垣纏中将並に十七勇士菊水塔」
 
の慰霊碑が建立されています。
 
 
 
 
 
 
 長官は、数多くの若者を送り出したからこそ、
 
腹を切らず自らも特攻で責任を
 
取ろうとしたのでしょうか…。
 
敵艦隊へ向かわず伊平屋島で命を落としたのは、
 
「日本は負けたのだから今更敵を殺しても意味がない」
 
とでも思ったのでしょうか…。
 
 
今となっては長官の想いを知るすべはありません。 
 
 
 
 
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