1978年11月、
愛媛県南宇和郡愛南町久良湾の海底で
1機の紫電改が偶然ダイバーに発見され、
翌1979年7月に引き揚げられました。
この機体は、
1945年7月24日に敵艦載機迎撃のために発進し、
豊後水道上空で交戦した三四三航空隊の
未帰還機6機の内の1機だそうです。
戦後30年以上海没してたわりには
保存状態が極めて良好だったので、
当時参議院議員だった源田実元大佐が各方面に尽力し、
引き上げ・保存となりました。
現在は愛南町にある南レク馬瀬山公園の
紫電改展示館に保存・展示されています。
1942年6月のミッドウェー海戦以降
日本軍は守勢から劣勢に転じ、
同時に太平洋各地を我が物顔に席巻してた
零式艦上戦闘機も、アリューシャン列島で
米軍にをほぼ無傷で鹵獲されて以降
その特性を分析され、
苦しい戦いを強いられることとなりました。
次期主力戦闘機の開発・配備が進まぬ中、
海軍は川西航空機が開発した水上戦闘機
強風をベースに開発した、
地上用戦闘機紫電一一型を投入します。
画像(上)が強風で、画像(中)が紫電一一型で、
画像(下)が紫電二一甲型いわゆる紫電改です。
尾翼の番号は松山航空隊所属を表しています。
紫電と紫電改の違いは多々ありますが、
外観で識別できるのは
主翼配置が中翼(紫電)と低翼(紫電改)。
20mm機銃が主翼下に取り付け(紫電)と、翼内装備(紫電改)。
紫電改の増産が始まった頃は、
すでにサイパンが陥落し日本本土への空襲が激化するとともに、
製造に携わっている者は学徒動員された学生や
女子挺身隊などのにわか工員で、
航空燃料をはじめとするあらゆる部品の品質低下が生じたため、
その性能をフルに発揮できずに終わりました。
またこのようなエピソードも残されています。
機体シルエットが米軍のF6F ヘルキャットとよく似ており、
友軍から敵機に間違えられよく攻撃を受けたそうです。
あの戦艦大和からも誤射された記録が残っています。