思考と判断の根底を探して(4)Y先生と『草枕』 | ひだまり 日常生活

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Y先生の教育方針は、生徒に好きな本を読ませて読書感想文を書かせるというものであった。本の選び方を知らなかった私が偶然手にしたのは、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される・・」の書き出しで有名な『草枕』だった。私は主人公の心情に重きを置いて感想文を書いた。すると、Y先生はそれを絶賛した。

思えばこのときからである。私に対するY先生の態度が変化したのは。それからというもの、私はどの科目でも何をしても褒められるようになり、仕舞には特別扱いされるようになった。それは私が卒業するまで続いた。いま振り返ると、私はこの頃だけが唯一、自分を肯定できた時期のように思う。

10年ほど経ったある日、満員の通勤電車で私の前に白髪混じりの中年男性が立っていた。その人は、まぎれもなくY先生だった。私の記憶にある長髪で芸術家のような風貌とは随分変わっていた。教員を辞めて会社勤めをしているらしい。
「この歳で新しい環境に慣れるのはしんどくて・・」と先生は弱音を吐いた。私はその弱音を受け止めるには若過ぎて、何と応えたらよいか分からなかった。私は先生が教員を辞めた理由も、私を特別扱いした理由も聞けずに先生と別れた。

それ以降、Y先生とは会っていない。その後、ある人からY先生は画家になりたかったようだと聞いた。『草枕』の主人公も画家である。かつて、私を褒めたのは、「画家の心情を察した私」で「私」ではなかったのだ。私はなんだか寂しくなった。






尊敬する人から褒められたり、認められると、私のように短絡的な思考の持ち主は自分は正しいと思いがちである。しかし、自分の意見や判断が妥当か否かは、ひとつひとつの事柄で、その根拠を探して客観的に観察しなければならない。私は未だ洞察力が不十分なので、すぐ誰かに意見を求めたくなる。自分で考えもせず、人に意見を求めることは判断を放棄することに等しい。この責任逃れの態度こそが、尊敬する人の意見を鵜呑みにして傾倒してしまう原因ではないだろうか。考えが行き詰ると、私はしばしば傾倒してしまいたくなることがある。ただ、いまはそれをどうにか踏みとどまっている。