こんばんは、Hareです。

 

個人という考え方について、180度回転しました。

自分だと思っていたものが自分ではなく、自分の外にあると思っていたものが、自分を構成していました。

個人の視点を採用していたことで、過去の学んだことの多くが効果を減らしていました。今は封印されていた学びが、解放されて行っている渦中におります。

 

図と地がひっくり返るというのはこういう感覚なんでしょうか。

 

 

さらさらと消えていく今の変化の臨場感を記事に閉じ込めます。

 

 

「いまこの瞬間の臨場感」はとても大事です。

それも書き留めておけば、自分が指導する側(ヒーリングする側)になったときに、自分の書いた文章を読み返して、初学者の臨場感を少しだけでも思い起こすことができます。ゼロとイチの間には無限の距離があり、ほんの僅かでも思い出せれば、自分のフォロワーさんに寄り添うことができます。

 

 

 

いつもながら、多くの先輩ヒーラーたちの影響を受けています。

書き換わる時は大抵、関係ないように思えても、畳みかけるように繋がります。

 

TMダイエットの森野さんによる毎夜の『TM遠隔ヒーリング』は、今週は 「さよならエゴ、こんにちはゴール」ヒーリングweekだったこと、

そしてその自由を妨げるものが、僕たちいつの間にか囚われてしまっているエゴです。古いアイデアや古いゴール、社会的洗脳、トラウマといったもので凝り固まってしまったエゴを解きほぐしましょう。

 

それには例えばピエタであったり、ロジカルモンスターになれるサイコパスの気功技術プサイをガンガン活用していくのがオススメです!!

 

 

 

リニューアルOnLineMentor2期の6-1でクンダリーニを複数習い、特にサイコパスにする『プサイ』に気を惹かれたこと。

 

久しぶりにシュンさんの本をパラっとめくったらエゴについて書かれていて、読んだこと。

 

逆に、凡ミスが連続したり、忘れ物や落とし物が頻発したり、変な事態に巻き込まれてしまったりするときは、もしかしたらどこかで「エゴが暴走している」かもしれません。

 

 

 

 

他にも気づいていること、気づいていないこと含めありますが、

それらが折り重なるようにして起こり、畳みかけられ、細い穴を通るように押し込まれ、するっと抜けて次の空間にたどり着いたのだと思います。

いつもありがとうございます!

 

 

 

  個人という幻想、虚構

 

本題に入ります。

 

まず、個人は幻想である、という議論は何度もまといのばブログにて繰り返されています。

引用します。

 

我々は個人という幻想を共有し、心や自我を想定したことによって、機能不全に陥りました。

いわば、そもそも存在しないものを想定して、解決どころか問題をグチャグチャにしています。

 

範馬勇次郎に言わせれば、「上等な料理にハチミツをブチまけるがごとき思想」なのですw(多分)

 

 

 

もっとアリストテレスに戻って、人は政治的な動物であり、群れるものであり、共同体から外れた人間というのは神か獣であると一刀両断してしまえば良いのです。

 

individualの語源はin(否定)とdividuus(分割)であり、シンプルに言えば個人とは分割できない存在です。そのような虚構を設定したからこそ、迷宮に迷宮を重ねてしまうのです。

 

我々は群れる存在であり、人も群れ、体細胞も群れ、細菌叢も群れます。

群れ単位で共同体単位で考えれば、いろいろがシンプルになります。

 

自分がどの群れにいるのかを察知しながら、気に入らなければ違う群れに移動すれば良いのです。

違う群れへのワープを内部表現書き換えと言います。その群れはいくつあっても良いのです。

そして、群れにアジャストすることを、ホメオスタシスと言います(だから「努力は不要」なのです。「働いたら負けかなと思ってる」をもじるならば「努力したら負けかな」と思った方がいいのです。たとえ傍から見て努力であっても、本人は好きなことに熱中しているだけです)

 

 

 

前までは「なるほど!(わかっていない)」となっていたのですが、

 

自分がどの群れにいるのかを察知しながら、気に入らなければ違う群れに移動すれば良いのです。
違う群れへのワープを内部表現書き換えと言います。その群れはいくつあっても良いのです。
そして、群れにアジャストすることを、ホメオスタシスと言います

 

今引用をして、ここにさらっとすごいことが書かれていることに気付きました。

 

「場が主、場が本体であり、複数の場が重なり合いながら自分を構成している」

言葉ではなく身体によって腑に落ちると、「奥義が書いてある!!」と興奮します爆  笑

 

 

逆に個人礼賛パラダイムの中にいた時、

「自分が主であり、外部に複数の場や共同体がある。」

という視点があった時の私は群れに合わせて自分を変えようとし、

「元々変わらない(と思い込んでいる)もの(自分)を変えなくちゃ」と、

努力の苦痛、かつ「自分でないものに変えようとする苦痛」に苛まれます。

 

自分 → 場

というベクトルのイメージです。

 

また、今いる群れが気に入らない場合、染まってしまわないようにと、努力をしてしまいます。

 

 

でも、場や共同体が自分を構成していることに気付くと、

群れに合わせて自分が変わることは当然のことと思えてきます。

自然の摂理のようなもので、逆らうようなものではないです。

 

そして同時に、自分が所属している群れに対して敏感になります。

その群れが自分を作っているのですから。

 

毒になる親で話されるような、社会に蔓延する毒が回っている組織であれば、

その群れにいたらその毒を自分にも回すことは当たり前(自分の努力でどうにかできない)ので、

いる群れを他に変更しようとなります。

 

 

 

 

接続している、共同体、政治的動物、リヴァイアサンといった言い方で、独立した個人ではないという言い方がなされています。

 

我々は何らかの形で接続していると考えても良いですし、やわらかく共同体と考えても、政治的動物(アリストテレス)と考えても、リヴァイアサンを思い起こしても何でも良いのですが、最近のテーマである近代(そして現代)の病(もしくは呪い)としての「Individual(個人)」が思い起こされます。

 

(~~~)

 

パラダイムというか、思考の枠組みというのは非常に重要です。

 

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そのうちでもかなり大きいのが(そのようなパラダイムの中でも一番問題なのが)、こちらです。

 

私たちはみな独立した個人である

 

と、「まといのば」では考え、これは2013年の近代(現代)批判の大きなテーマでした。

 

「独立した個人」であると考えるからうまくいかないのです。

 

 

僕はここに空海を思い出しますし、子供時代の多くの人のヒーローであろう宮沢賢治を思い出します。

空海については皆さんよくご存知でしょうから(いや、宮沢賢治も)、ちょっとヴァータに結論に飛べば、宮沢賢治の傑作『春と修羅』の冒頭に書かれた文章(教科書などでもおそらくお馴染み)が(僕にとっては)ようやく分かりそうな感じがするのです。

 

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
(『春と修羅』冒頭)

 

(~~~)

 

宮沢賢治は明確に「わたくしという現象」は「あらゆる透明な幽霊の複合体」と書かれています(まとめすぎ)。

 

 

「わたくしという現象」は「あらゆる透明な幽霊の複合体」

というのはしっくりきます。

 

 

 

私たちの脳が接続されていることについて、

また接続されないとブートしないことについても、議論が展開されています。

 

言葉も携帯電話もITもすべてそれ自体(スタンドアローン)では役に立たず、関係が生じてブート(起動)します。友達がいないフェイスブック(フィード購読だけというのも方法ですが)、友だちがいないLine、知り合いがいないスカイプ、登録された番号が0件の携帯電話を想像すれば分かります。

そして人間も同じです。
「人の間」と書いて人間とはきわめて巧妙な気がしますが、人は存在せず(自我は存在せず)「間」、関係性が生じてはじめて人間はブート(起動)されます。
「いやいや物理的には1人でもブートされるでしょう」というのは早計です。
たとえば、身体のスペアを作りたいという真っ当な欲求のために自分のクローンを作ったとします。移植の際に免疫抗体反応も起きないし便利だと考えるのは普通のことです。
しかし、そのクローンをずっと試験官の中に入れておくと成長しないことが知られています。環境に置かないとブートしないのです。意思を持ち、自己判断をして人間として暮らさないと臓器も身体も成長しないのです。
クローンではなく、普通のこどもでも同様です。
ネグレクトされた子供は同じ食事を与えられていても、成長しないことが知られています。体が大きくなりません。文学的に言えば、我々は「パンのみに生きるに非ず」なのです(マタイ4:4)。愛によって生かされます。愛情が無ければ、成長しないのです。成長どころか生きることもできず、孤独死します。

言語現象を考えると脳というのは接続されてはじめてブートすると僕は考えます。
脳はお互いに接続されていて、それが自覚的になるときにはじめて脳は起動します。
接続を媒介しているのはまずは5感でしょうし、言語でしょう。
ホメオスタシス同調(それが匂い物質によるものであれ、視覚情報であれ)も脳の一種の接続です。

脳が接続するというイメージははからずしもWorld Wide Webによって逆に判明したことです。
サイモンとガーファンクルは「I am a rock, I am an island. 」と唄いますが、「私は孤島」だとしても、海水がなければすべてのバラバラの島はつながっているように(海水があっても同じですが)、我々も一人ではないのです。一人ではないというとスピリチュアルっぽいですが、浅薄な理解ではなく、脳科学や現代哲学を経て似て非なる結論にたどり着いているだけです。

 

 

 

 

 

自他を切り分けず、仲間を応援し、喜ぶこと。

 

仲間のことを自分の延長線上として考えることです。

 

もちろん自我も自律も大事ですが、そのような意味ではなく、、、

 

仲間の成功を我が事のように喜ぶことです。

 

それを自分のことのように喜ぶことです。

 

たとえば、ゆうくんはそれをしっかり実践しています!会場まで応援に行ったそうです!

 

 

その他者とは厳密には自分のことです。拡張された自我を共同体と言います。そしてそれはアリストテレスに言わせれば、最小単位です。その意味では自分は自分が自分だと思っているものではありません。Fleshは借り物です(身体髪膚を父母から受く)。それも未来の世代に受け継ぐものです。そして借り物だからこそ、丁寧に扱い、そして天に返す感覚が必要です(雑に扱いまくっている僕が言うのもブーメランですが、ロジックはロジックです)。

 

思わず自分が自分と見做すものを自分と見做さず、仲間の素晴らしい活躍を我が事として喜べるようになると、ふわっと自分の立ち位置が上昇するのを感じます。

「蜘蛛の糸」のカンダタの失敗は自分と後に付いてくる者を切り分けてしまったことです。

相田みつををさんの言う通りです。

 

「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」

 

のです。

 

 

独立した個人として自分を捉えていたとき、

「仲間として喜ぶと、成功している人たちに同調するのかな」と考えていました。

 

間違ってはいないと思うのですが、

これは自分から相手に向かってベクトルがでている視点です。

 

場や共同体が本体で、自分が影なのであれば、

場や共同体で喜びが起こっているとき、自分が喜ぶのは当たり前のことと思えてきます。

 

 

 

また、同じ記事より引用です。

 

忘れないうちに書いておきますが、これから気功を学びたいと思い、そしてギルドに参入したいのであれば、面倒見の良さで定評のあるシンクウさんのサブスク企画はオススメ。

とは言え、自分がそこでどんな機能を果たせるのか、どんな風にギルドやコミュニティーやクライアントさんの役に立てるのかを必死で考えることが大事です。

 

 

場が本体であり、自分はその影であり、場は選べるとなると、選んでいる場は主体的に参加していることになります。

そして、自分はその場を一つの構成要素として生きています。

となると、その場を良くしようという思いも自然と働きます。

 

「自分が何ができるか」→「場が求めているものは何だろう」

 

 

 

場は自分で選べるのであれば、

未来の抽象度の上がった場に接続していくことになります、

即時、比喩ではなく、場からの力が入ってくることを感じます

 

自分のために「肺の復活」などの気功技術を使うのはとても良いことですが、それがいかに社会に広がりをもち、影響を持つかを考えてみると、大周天が大きくなり、気功技術の効果は増大します。

 

 

 

 

「私は『まといのば』そのものだよ」

 

「まといのば」は一義的には整体所の名前であり、そして整体所が拡張された場の名前でもあります。

ということは、蔦重(つたじゅう)ではないですが、「お前も写楽だよ」ということで良いのではないかと思います。

 

「『まといのば』で気功を学びたい」と心から思ったら、「私は写楽だよ」もとい「私は『まといのば』そのものだよ」とマントラすることを心から勧めます。

実際に御縁があって、このブログの文章を読んでいること自体がその証左です。

巨大なプロジェクトの一員であり、そうであるならば、「まといのば」のイチブというかゼンブなのです(←意味不明)。

 

 

「私は『まといのば』そのものだよ」

自分とまといのばを切り離していて、畏れ多いだけだったマントラが、

身体の軸を通すように、ずれている部分が繋がり、流れてくるような感触です。

 

 

 

 

 

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場からの視点、共同体からの視点をいつ得るか。

よくあるタイミングとしては部活や、社会人の最初の方なんでしょうか。

 

排斥され続けたとばかり思っていましたが、

共同体ではなく、「神か獣」を選んで自他を切り離していたのは自分だったのかも。と。

 

 

ふと浮かび上がってきた言葉があります。

「自分は社会復帰中」

 

もっと身体が良い方向にどんどん変わるのが楽しいとか、知識によって視界が広がる感覚がたまらないとか、知識によって地獄の日々が天国に変わったとか、スピリチュアルをジプシーしているうちに魔境の縁をお散歩していたことに気づいたけど、きちんと学ぶことで社会復帰できて嬉しいとか、そういう強烈な体験とか、強烈な感覚、強烈な動機があって、あとは手探りでやっていけば、続ける限りは成功します。

 

 

社会の蔓延の毒に侵された毒になる親によるアダルトチルドレンであったことも、

ブラックな環境にいて、一か月先より先の未来を観ることができなくなっていたこと(最近気付きました。これって普通ではないんだと)も、

目を背けず、未来で財産に代わると考え、今の自分に期待しすぎず、未来のゴールの自分たちに期待して、生きます。

 

(引用開始)

「20代をゆっくり過ごしてきて、30歳にもなって、まだ何者にもなれていない人」は、その時点で、付き合う候補から外されちゃうんだよね。
 
「20代をゆっくり過ごしてきて、30歳にもなって、まだ何者にもなれていない人」に残された友達候補は、「20代をゆっくり過ごしてきて、30歳にもなって、まだ何者にもなれていない人」で、残念ながらその人は「決定権」を持っていない。
 
あと、会社や社会は、「何者でもない30代」にチャンスは与えないんだよ。
 
どのみちリスクをとって「何者でもない人」にチャンスを与えるのであれば、「何者でもない20代」に与えた方が、期待値が大きいので。

 


(引用終了)

 

(~~~)

 

僕自身は年齢は関係ないと思っておりますし、死ぬ前日であったとしてもコンバージョン(回心)は起こるし、切り替わると思っています(もちろんそこから何事かを成し遂げるためには長期間の鍛錬は必須です)。

 

その意味では、25歳でも35歳でも、45歳でも55歳でも65歳でも関係ないと思っています。

ただどの年齢でも強烈な衝撃は必要です。

ショックですね。ショックこそが人を目覚めさせ、成長させます。

 

 

 

場が自分を構成するならば、そして自分が場に参画し、奉仕するのであれば、

未来のゴールの場こそに奉仕したいです。

なので、場を作っていきます。

いま既にある場で、自分に合うところがあると信じてジプシーするのではなく。

 

その場は、そこにあって形がないだけなので、取り出して、形にしていきます。

 

 

おやすみなさいませ。

良い夢を。