Hardnutのブログ -38ページ目

エチオピア饅頭

英国の植民地政府が描いたナイロビの都市計画では、中心部は官庁街とオフィス街で、その西と北が白人居住区、北東から東にかけてはエイシアン(Asian)地区と呼ばれるインドパキスタン出身者居住区で、その東の外側がアフリカ人(黒人)居住区となっていた。

ナイロビの中心から真東の方向の郊外に、地図で空白になっている部分があるが、これは空軍基地で滑走路が東西に走っているが軍事上機密と考えられてか、地図では空白になっている。でも、Google Earthで見ればばっちり見ることができる。


このMoi Air-Baseという空軍基地の手前に、イーストレイ(Eastleigh)という地区があり、土地の人たちはイシリー(Isili)と呼んでいて「イーストレイ」と言っても通じない。

もともとエチオピアとソマリア人が多く住んでいたところへ、「自分はシバの女王とソロモン王の末裔である」と憲法前文に謳っていたハイレセラシ・エチオピア皇帝が1974年にクーデターで打倒されると、エチオピアからの移民難民がこの地区へ一気に流れ込んだ。

以前から中東各国が資金援助して建設されたモスクなどがいくつもあり、30年前のこのあたりは、その他の地区とは全く違った雰囲気で、エチオピア名物のインジェラを食べさせてくれるエチオピア食堂や、ピラウ(ピラフ)やべとべとに伸びきったパスタを食べさせてくれるソマリ食堂などがあった。


植民地獲得競争に出遅れたイタリアは、結局英仏の取りこぼしのソマリ・エチオピアを植民地にした。

1885年にゴードン率いるハルツームの英国が軍全滅したあと、英国はアビシニア(エチオピア)の統治もできなくなっていたところに、植民地化を図るイタリアが第一次エチオピア戦争を仕掛ける。第一次というのがあるので、第二次というのもある。ちよっと間があいて、こちらは1935年から36年にかけてで、航空機・戦車まで投入した歩兵50万にイタリアに対して、歩兵のみ80万だったそうだが武器は石・棍棒・槍・弓と少しの銃。文字通り徒手空拳でエチオピア軍戦死者27万人、負傷者50万人ということだったらしい。


こんな話が太平洋戦争に突入する前の日本にも伝わってきて、高知県の饅頭屋さんが果敢にイタリアと戦うエチオピアに感動して自分の饅頭に「エチオピア饅頭」と命名いたとのことで、エチオピアとは全く縁もユカリもないけれど土佐の高知の観光土産になっているらしい。

アビシニアで一時期人質になったこともあるチャ―ルス・ゴードンのことを思い出したら、エチオピア饅頭を連想した。

アフリカのナポレオン

週末に出かけたい用件があったけれど、結局冷房のきいた部屋でウダウダと過ごしほとんど外出はしなかった。

こう云う時は、以前買ったもののそのまま読んでない本などに手を伸ばすいい機会で、ある歴史関連の本で、幕末から太平洋戦争までを書いたものを読み始まったら止まらず、それで週末が終わってしまった。


日本の幕末の話から、清国の太平天国の乱の話が出てきたら、太平天国の乱を最終的に鎮圧した英国人軍人チャールズ・ゴードンのことを思い出した。ゴードンはその功績で「チャイニーズ・ゴードン」などと呼ばれていたが、その後各地の任務についたが最終的に、エジプト領スーダンのハルツーム総督となり、1883年にアラブ人反乱軍と戦い1884年初めにハルツームの総督府で全滅した。


当時の英国政府は「3C政策」という植民地発展計画があり、ケープタウン-カイロ-カルカッタのイニシャルの3つCをとり、これらを電信と鉄道で結ぶという壮大な計画で、それを本気で進めようとしていたのがセシル・ローズ(Cecil Phodes)で、ゴードンがハルツームで壮絶な最期を迎えようとしていたころ、ローズは南アフリカでデ・ビアス鉱業会社を設立、政界にも進出して1884年にケープ植民地議会の財務相となる。その後、ローズは首相に就いて、英本国の4倍以上のアフリカの大地を獲得し、自分の名前にちなんで「ローデシア(Rhodesia)」と名付けた。北ローデシアがザンビアの前身で、南ローデシアがジンバブエの前身となるが、そのころ彼を「アフリカのナポレオン」と呼ぶような人も現れたという。

その後、ローズは失脚し50歳を前に亡くなるが、彼が仕掛けたボーア戦争は1902年まで続く。


そのボーア戦争で功績をあげたある英国軍人が、当時、日英同盟で同盟関係にあった日本を訪れ、日ロ戦争の日本海海戦を実見する機会を得、日本海軍の個々の優秀さと士気の高さを絶賛したという。


日曜日の朝日新聞の社説は、ひとつは、これから国民投票を経て北スーダンと南スーダンに分裂しようとしている国への自衛隊PKO部隊を派遣しないのかということと、もうひとつは、日本の若者はもっと海外へ出て行くべきだということを書いていた。

ハルツームへ行く機会はなかったが、最高に暑いときには50℃近くなるそうだから、歳の行ったオッサンにはやっぱり東京の冷房のきいた室内の方がいい。







暑中お見舞い

今日は大暑だそうだ。

東アフリカのインド洋に面した赤道直下のラム島から南下してマリンディ、モンバサ、さらにタンザニアのザンジバル島を過ぎてモザンビークあたりまでの一帯が一年中でもっとも暑くなるのは1月から2月にかけてだけれど、この高温多湿の日本の夏は、赤道直下のインド洋より暑く感じる。


ケニアの憲法改正国民投票の投票日8月4日が近づいて来たら、運営費用が捻出できないので延期しようかという話が現実味を帯びてきた。

憲法改正は、2007年末の総選挙結果に絡んで大統領派と野党が抗争を始め緊張が高まり、結局前国連事務総長のコフィ・アナンが調停に乗り出して与野党連合政権が成立となったが、その際いろいろな憲法論議がかわされ憲法改正の動きとなって今回の国民投票となった。

しかし、憲法改正の話は2007年末の総選挙後のゴタゴタに端を発しているのではなく、始まりは1990年からの世界的な自由化の動きに触発され多数政党制、大統領権限の縮小などからで、それが延々と続いていた。

憲法改正して大統領権限に制限を加えよと一番声を大きくして叫んでいたキバキが、2002年に大統領になったら憲法改正などどこかへ消えてなくなってしまった。


ドラフトを読んでないので詳しくは知らないが、キバキ政権が国民の判断を仰ごうというのは、かつての大統領権限の制約などではなくその逆ということらしく、いまケニアでは、憲法改正を支持する与党「Yesグループ」と改定反対の野党「Noグループ」が盛んにキャンペーンをやっているようで、両派の衝突なども伝えられている。


ナイロビあたりは赤道直下といってもちょっと南半球側のなるので今が冬で、6,7月は、朝夕冷たい霧雨が降り、セーターや薄手の防寒着を着込んでちょうどよいという季節だけれど、政治は加熱気味のようだ。