「信仰者の系譜」 ヘブル11:32-40 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「信仰者の系譜」 ヘブル11:32-40

1.歴史、伝統を学ぶ意味

 ヘブル書11章、信仰者列伝。

先週は出エジプトの大指導者モーセの信仰から学びました。

アベルから始まって、カイン・エノク・ノア、更に

アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフ、そしてモーセ、

ラハブと語られてきてさぁ次に誰が語られるのか。 

32節
「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、

サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たち

についても語れば、時間が足りないでしょう。」

ああ、もうこのペースで語っていったらとてもとても

時間が足りない、と言うのです。

旧約聖書でいえば創世記・出エジプト記・ヨシュア記と

語られてきて、まだ前半部分です。

このあと、士師記があり、ギデオンやサムソンなど、

良く知られた士師の名前を挙げ、更にサムエル・ダビデ

というイスラエルの創世記の信仰の偉人の名前が一息で挙げられる。

これでまだ旧約の道半ばです。

イスラエル王国の歴史の中には、ソロモン王やエリヤ・エリシャ、

また捕囚時代にはダニエルやイザヤ・エレミヤなど

スーパースターが幾らでもいる。

でももう名前を挙げていったらとても時間が無い。

そう言って名前を挙げずに、しかしイスラエルの旧約の歴史において

輝く幾多の信仰者たちを見据えるのです。 

12章に至りますと、久しぶりのことのようにして

イエス・キリストのお名前が記されます。

私たちの信仰の中心・核心としてのキリストが語られる。

しかしキリストのお名前をパッと現すのではなく、

ヘブル書の著者はわざわざ一度創世記の始まりから

旧約聖書全体を概観していくのです。 

なぜでしょうか。

そのような信仰の歴史の営みの中に

イエス・キリストは来られたということ。

キリストの十字架の血が流されたということを

思い起こさせようとしているのです。


伊東市には5つの教会がプロテスタント、

そしてカトリック・聖公会があります。

聖公会はプロテスタントとカトリックの中間に

立つような独特の立ち位置を持っておりますし、

カトリック教会は同じ西方教会に属しますが違いが顕著です。 

都心に居ると中々教派を超えた交流は少なく、

同盟教団と基督教団の交わりさえ中々得られないのが

現実ですので、地方の教会の恵みとして必然的に

交わりが深まるというのは本当にありがたいことで感謝をしております。 

相互に知り合い、学び合うことで、間違いなく

両者の教会がより神様に近づくきっかけをいただくことが

できると確信しています。

違いを見つめていくと、違いの意味が必ずあるのです。

例えば、カトリック教会で司祭になることと、

プロテスタント教会で牧師になることと、

その道筋の違いというのも面白いものであります。

恐らく、どちらの教会も正式な牧師・司祭になるのには

8年程度かかると思いますが、プロテスタントの場合は

その8年が神学校と教会の現場と半々くらいになる。

つまり、牧師になるために現場での学びが重視される。

一方カトリックの場合は神学校での学びが大半を占めます。

卒業して教会現場に出ると、後は割と速やかに司祭への道が開けます。

カトリック教会において神学校の学びがプロテスタントより

長いことの理由は、あまり単純化してはいけませんが、

カトリック教会が歴史・伝統を重んじることに

一つ由来すると思います。

聖書神学自体の学びの量はそれほど違いはない。

ただカトリック教会の場合、聖書に関係する神学にプラスして

2000年間の教会の歴史や伝統にまつわることの学び。

特にラテン語に関連する書物の学びは膨大で、

これはプロテスタントと比較になりません。

カトリックの司祭はギリシャ語・ヘブル語に加えて、ラテン語が必須です。

そうやって教会の歴史と伝統を身につける。 

一方、プロテスタントは基本的に聖書を徹底して学びます。

そして派遣されたならば、聖書から学んだ神学を持って

今という時代の中でどのように仕えて行かを実践的に学んでいく側面が強い。 

このようにそれぞれの教会に違いがあります。

私たちプロテスタント教会が「ただ聖書のみ」これは大原則でありますが、

しかし一方において2000年の教会の歴史に深く深く

根ざしているカトリック教会の強みがたくさんあるし、

歴史の浅いプロテスタント教会は根なし草のような脆さを

露呈することがしばしばある。

歴史、伝統、これは教会が安定して福音をのべ伝えていくために

私たちがちゃんと学ぶ必要のあるものです。 


ヘブル書の記者がイエス・キリストを語るに当たって

旧約の信仰者を一人一人思い起していく心は、

イスラエルの歴史に根差すイエス・キリストの十字架を

私たちに教えようとしていることです。

確かに、私たちにとって大切なのは十字架です。

キリストの十字架と復活、それ以外には何も必要ではない。

けれども一方において、ヘブル書がその一番初めで

語っていたことは正にこういうことである。

「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、

多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、

この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」

様々な預言者の口を通して、多くの部分に分け、

色々な方法で語り、そして最後に御子によって語られた。

なぜか?

一度に全てではなく、という聖書の原則を申し上げました。

大切なのはキリストです。キリストが全ての全て。

でもだから、キリストのことだけを知れば良いと言ってみて、

それで私たちにイエス様が分かる訳ではない。

福音書だけ読んでいれば良い、山上の説教さえあれば良い、

そうではないのです。

私たちは全ての全てであるイエス・キリストの、

その十字架と復活の意味を、意義を、恵みを知るために

様々な預言者が、様々な部分に分け、色々な方法で語った、

歴史としての言葉を必要としている。

そうやって、イエス・キリストについて

少しずつ理解していくことができるのです。


ある一人の有名なシェフが生産者の方々を前にして、

このような素晴らしいお話しを為さったそうであります。 

「私たち料理人は、みなさん方が一生懸命に丹精を

込めてお造りになった野菜を使わせていただいて、

お客様が喜んで下さる料理を日々作らせていただいています。

私たち料理人は、一年365日料理を作り、そしてお客様に出しています。

これは、言い換えれば、一年に365回のチャンスを

いただいているということです。

私が、もし50年料理人をするとしたら、一生に、18,250回も、

美味しい料理を作るチャレンジの機会をいただくということです。

しかし、みなさん方は違います。

一年に一回、50年農場をおやりになるとしたら、

一生で50回のチャンスの中で、本当に美味しい野菜を

作ろうとご苦労される。尊いことです。

その、みなさん方がこころを込めてお作りになった野菜を、

きちんと美味しく食べていただけるよう、

私は、日々必死に取り組んでいます」、

同じようにたった一度の十字架の贖いの業を、

私たちは何百回・何千回という御言葉を通して少しずつ学んでいく。


2.イエス・キリストに繋がる信仰の歴史、伝統

33節から更に続きます。

「彼らは信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、

約束のものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、

11:34 火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、弱い者なのに強くされ、

戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました。」



ここで言われている出来事の最初はダビデ王の活躍であり、

また「獅子の口をふさび、火の勢いを消し」

というのはダニエル記に記されているダニエル少年、

またシャデラク・メシャク・アベデネゴの活躍のこと。

ネブカデネザル王の金の像を拝まないことで

燃え盛る炉の中に投げ込まれながら、神様が守ってくださった

と言うあの出来事。

また

35節「女たちは、死んだ身内の者たちをよみがえらせていただきました。

また、ほかの人たちは、もっとすぐれたよみがえりを得るために、

釈放されることを拒んで拷問を受けました。」

35節の冒頭はエリヤ・エリシャの物語、

やもめの一人息子を預言者たちが甦らすという有名な出来事。

さらに35節の後半でありますが、

「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、

釈放されることを願わないで拷問を受けました。」

これは私たちプロテスタント教会には馴染みの無い

旧約聖書外典のマカバイ記に記されている物語です。

カトリック教会においては第二正典として読まれているものですが、

第二マカバイ記の6章というところに、大きな太鼓の形をした

道具の周囲に死刑囚は結びつけられ、死ぬまで打たれるという

残虐の処刑法で、老律法学者エレアザルが殉教の死を

遂げたことが記されています。

エレアザルは拷間の苦しみをのがれる策を勧められますが、

少しもためらうことなく進んで拷間台の所に向かうという物語があります。

また直ぐその次の章には、七人の兄弟とその母の壮烈な

殉教物語が記されています。

彼らは、アンティオコス・エピィファネス王によって

「もし神の律法を捨てるなら、拷間も死も免れ釈放される」

と言われながら、だれ一人としてそれを願う者はなかった。 

特に二番目の子どもは息を引き取る間際に王にこのように言うのです。

「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが

世界の王は、律法のために死ぬ我々を永遠の新しい命へと甦らせてくださる」

後にキリスト教会が生まれてから人々は

このマカバイ記に記される7人の殉教した兄弟たちを

甦りの信仰を告白した信仰の先駆者と呼んだのです。

ギリシャ正教では今なお、この7人の兄弟を記念する

礼拝を執り行うようであります。 

彼らが期待したよみがえりは、エリヤ・エリシャの奇跡を

期待した母親たちのそれよりも更に優れていたと35節に記されています。

列王記に記される、あの母親たちは子どもたちが

生き返ることを期待しました。

生き返って共に生活することを期待した。

しかし、マカバイ記に記されている殉教者たちは

この世の生活に未練があったのではない。

やがてこの世に戻ることではなく、その先に用意されている甦り、

即ち神の御国における永遠の命に希望を抱いた。 

更に36節以下を見ていきますと

「また、ほかの人たちは嘲られ、むちで打たれ、

さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、

11:37 また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、

羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。」

もうたたみかけるように信仰ゆえの苦しみ・痛みについて語られていきます。

これがイエス・キリストに繋がる信仰の歴史、伝統である。

勝利の歴史とは言えない。

むしろ敗北・苦しみの歴史と言えるかもしれません。

正に38節に語られているように、

「荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよい歩く」ような信仰者たちの姿。 

このようにして信仰者の歴史・伝統が語られて、

そして彼らの信仰の総括として

39節
「これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、

約束されたものを手に入れることはありませんでした。」


彼らは約束のものを得ることはできなかった。

神様に対する真実を貫いたのに、しかし約束の勝利を

地上の生涯に得ることはできなかった。

彼らは死んでしまったのです。

しかもその死は、華々しい死ではなかったというのです。

何のために死ぬのか分からない、無駄死にのような死、

敗北の死、絶望の死を幾多の聖徒たちが経験した。

そのようにして、美しくない、望みの無い、

栄誉の無い死をものともせずに受け止めて行った旧約の信仰者たちがいる。 

なぜそのような死を受け入れられたのか。

その問いの答えとして、来週学びます12:2でありますが、

いよいよヘブル書の中心を為す御言葉が語られる。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」

このような展開です。

旧約の聖徒たちはイエス・キリストを直接には知らなかったけれど、

でも来たりたもうメシヤの望みを仰ぎ見て、

そこからひと時も目を逸らすことなく

不条理の死をも望みを持って受け止めて行った。 

旧約聖書にもちゃんと約束がありました。

詩篇116:15に書いてある。

「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」

聖徒の死は無駄ではない。無駄ではないばかりか尊いものである。

神様がその死を意味あるものにしてくださる。 

ですから地上における完成ではない、永遠に生きたもう

神の臨在の中に自らの命の完成を見たのです。

そして、事実キリストは来てくださって、

十字架の救いにおいて旧約の幾多の聖徒たちの死を意味あるもの、

望みのある死としてくださった。 

そういう歴史の先に合って、私たちは逆に過去のキリストの十字架から

目を逸らさないようにと教えられている。

旧約の聖徒がこれから来る神の救いを見ながら

自らの生き方を定めて行った。

私たちはすでに来た神の救いを見ながら、

自らの生き方を定めていく。

これらのことは、直接的には1世紀の大迫害の中におかれた

初代教会の励ましとして書かれていることです。

思いがけない苦しみと思うな。

旧約の信仰の先輩たちの姿を思え。

彼らはまだ来ていない救いを信じて歩み通した。

すでに来た救いを信じることを求められる

私たちの方が遥かに幸せではないのか。

確かに与えられたキリストの十字架から目を逸らさない、離さない。

ただそれだけだ。 

私たちもまた旧約の聖徒たち、またヘブル書の読者たちほどでなくても

それぞれに苦難を身に帯びて生きている。色々な困難や恐れがある。 

その中で、あなたは自分の人生をどのような測りで

見ているのかが問われています。

限られた地上の命、その枠組みの中で今を見ているのか。

目の前の困難や不安を見ているのか。 

それとも、神が救い出したもう永遠の命と勝利の中に今を見ているのか。

あなたが今を、自分の人生を見つめるその枠組みはどちらであるか、

そのことが問われているのです。



3.信仰の系譜を受け継ぐ者

私たちはすでに現されたイエス・キリストの十字架の救いを

信じる者としての必然性がある歩みをしたいと思うのです。

「なぜこんな生き方が。なぜこんなことができるのか」、

そう問われた時にイエス様がおられる。そのこと以外では説明がつかない。

しかしイエス様がおられる以上私たちがどのような者であれ当然、

と言えるそのような生き方。

私たち一人一人も、こうして教会の中に生かされることの中で、

今日学んだ信仰の系譜を受け継ぐ者として召されているのです。 

帳尻合わせに心奪われることなく、全てを益としたもう

キリストを信じてこの世の損得から解放された

信仰者の歩みを貫いていきたい。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。