「“今私はある”と言われる神」ヘブル11:23-31 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

この火曜礼拝ブログは

川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「“今私はある”と言われる神」ヘブル11:23-31

1.神の目に適った

信仰者列伝、アブラハムに次いで先週はイサク、

ヤコブ、ヨセフと学びました。

今晩の23節以降はアブラハムに並ぶ旧約のスーパースター

モーセです。彼の信仰について、先週とは一転して

かなりの分量を用いて語られていきます。

23節ではまずモーセの両親の信仰に光が当てられるのです。

23節
「信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、

両親によって隠されていました。

彼らがその子のかわいいのを見、

また、王の命令を恐れなかったからです。」

先週はイサク・ヤコブ・ヨセフという三人の信仰を学びました。

アブラハム・イサク・ヤコブというこの3世代は

聖書の中で族長と呼ばれます。

イスラエル民族の始まりとなった人々であり、

特に3代目のヤコブは創世記32章に記される神様との

祈りの格闘において「イスラエル」という名前をいただきます。

聖書中はじめて「イスラエル」という名前がここに登場し、

イスラエル民族が始まっていく。

続く33章の終りにおいて、ヤコブは神様から

イスラエルと名をいただいたその場所に

「エル・エロヘ・イスラエル」、これは直訳すると

「神はイスラエルの神である」という意味の言葉でありますが、

そのようにしてヤコブがいただいた「イスラエル」という

名前が民族の名前になり、また地名としても

用いられるようになっていきます。 

このようにしてイスラエル民族が始まり、

イスラエルの地と呼ばれるようになり、しかしそれから

僅か数10年後のことイスラエルの地は激しい

飢饉に襲われイスラエル民族はエジプトに

移住せざるを得なくなります。

そこには兄弟間のいざこざで奴隷として売られていった

はずのヨセフが、あたかもイスラエル民族の窮地を救うために

先発隊として派遣されていたがごとく、

ファラオに次ぐエジプト第二の地位を得て

移住してきた父ヤコブはじめ兄弟たちを迎え入れたのです。

しかしヤコブが死に、ヨセフが死に、エジプトの地で増え広がった

イスラエル人をエジプト人は恐れるようになります。

いつかイスラエル人によってエジプトが乗っ取られてしまう。

そこでイスラエル人を奴隷としてこき使い、

更にはイスラエル人の家庭に男の子が生まれた時には

殺されなければいけないという恐るべき命令まで下される。

モーセが生まれたのはそのような時代でありました。 


モーセの両親は男の子を得て、しかしファラオの命令に

従いませんでした。モーセを殺すことをしなかった。

なぜか?

興味深いことに23節にはその理由は

「その子の可愛いのを見た」からだと語られています。

以前の翻訳では「美しい」と訳されていました。 

出エジプト記2:2に両親が生まれた子を見た時に

「その可愛いのをみて、3か月の間隠していた」

と書かれている言葉の引用です。 

確かに赤ちゃんはかわいい。けれどもそうやって

可愛いとか美しいとか綺麗とか、そういう外面的なことで

王の命令に逆らってあかちゃんを育て続けることはできません。

実際、他の多くの家庭では断腸の思いであったとしても、

王の命令に従っていたのです。そうであるなら、

ここで言われている赤ちゃんの可愛さ、美しさとは何であるか?
 
親であれば我が子が健康に生まれてきて欲しいと願う。

最近であれば、性別に限らず出産前に

分かることがたくさんあります。

けれども親の思うとおりの元気な子どもがかわいい子と

短絡的に考えていくところに落とし穴があるでしょう。 

モーセの両親は女の子が生まれて欲しいと願っていた。

必死に祈ったに違いない。

もし男の子が生まれてしまったらどうしようか…、

幾度も幾度も考えたでしょう。

けれども生まれて来たのは男の子だった。

そうやって期待に反して生まれてきた子どもを見て思わず

「可愛い」と思った。「美しい」と思った。 

実はあの殉教者ステパノが使徒の働きの説教で、

やはりこの所を引用して

「神の目にかなって可愛らしい子であったから」

と解説しています。そういうことなのです。 

親の目にかなって可愛い、美しい子だった。

だからかくまったのではありません。

親の思いを超えて、期待を超えて、

神の目に適った子どもだったから可愛かった。

神の目に適った子どもを殺す訳にはいかない。

愛さないではおられない。 神様が喜んでおられる存在である。

子どもの真の父である神様を認めた時に、

王の命令など恐ろしくなかった。

2.神の喜びを選んだモーセ

24節
「信仰によって、モーセは成人したときに、

ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、

11:25
はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに

苦しむことを選び取りました。」


いよいよ男の子を隠しきれなくなった時、

両親はモーセをカゴに入れ川に流すのです。

誰かがモーセを保護し育ててくれることに望みをかけたのです。

すると、何とファラオの娘が水浴びをしている、

ちょうどそこにカゴが流れつきファラオの娘が

モーセを我が子として育ててくれる。



殺されなければいけないイスラエル人の男の子は一転して、

エジプトの王子として王宮に育てられるようになる。

驚くべき大逆転が起こります。 

そうやって成長して行った時にモーセは人生の岐路に立たされる。

エジプトの王子として、エジプト王家に生涯生きていくのか、

それとも奴隷とされている神の民イスラエル人として生きるのか。

どちらに自らのアイデンティティを見出すか、

そのことを選ばなくてはいけない。その時に彼は、

信仰によって神の民と共に苦しむことを選んだ。

エジプト王の保護の下に生きるのか、

エジプト王の怒りの下に生きるのか、両極端です。 

そこでモーセは王を恐れなかった。

なぜか?

ここには必然性があると思います。

モーセ自身の命がどのようにしてあるのか。

それは23節に教えられていた、王を恐れない

両親の信仰ゆえにあったのです。

そうした時に、モーセが王を恐れずに神の御心を喜ぶ道を

選択したことは、まことに適切なことでありました。

そのようなモーセであったからこそ

27節
「信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなく

エジプトを立ち去りました。目に見えない方を

見ているようにして、忍び通したのです。」


当時世界でもっとも強大な権力を持っていたエジプト王に対し、

エジプトを捨て母国に帰還するという

恐るべき申し出をなすことができた。 

ここでもモーセは王の怒りではない、神の喜びを選んだのです。

ここでヘブル書はモーセの信仰を

「目に見えない方を見るようにして忍び通した」と解説しています。

素晴らしい信仰の言葉です。 

目に見えない神様を、あたかも目で見ているかのように、

これが信仰者の生き方である。


一人の天才的な少年ピアニストがおりました。

彼は与えられたステージでことごとお客さんを魅了し、

瞬く間の内に全米で知られるピアニストになりました。

マスコミも彼を大々的に取り上げ、名声は高まるばかり。

彼は全米でのコンサートツアーを行い、

行く場所行く場所で成功をおさめていきます。

さて、この全国ツアーの最後のコンサートを

彼は自らの故郷である田舎町で開催することにしました。 

町の人たちは当然、彼のコンサートを心待ちにしていました。

当日、彼は自らを育んでくれたこの町に感謝しながら、

やはりすばらしい演奏をし、満員の観衆は

惜しみない賞讃を与えたのです。

ところが、彼は舞台を降りて幕裏の控えに入ったのですが、

なかなか出て来ない。

マネージャーが「人々は総立ちで拍手しているのに

どうして出て行かないのですか」と聞くと、

彼は「二階のあの席の人が座ったままです」と答える。

マネージャーは飽きれたように言いました。

「良いじゃないですか。こんなに多くの人々が

あなたの演奏に惜しみないう拍手を与えている。

一人のおじいさんが腕を組んで座っているからと言って

どうして落胆する必要がありますか。」

そうすると、彼はこう答えたのです。

「あの二階席に座っているおじいさんは

私のピアノの先生なのです。私にとっては、

満員のお客さんの拍手があっても、

先生の評価が無ければ意味は無いのです」

この若き天才ピアニストは満員の観衆の

スタンディングオベーションの中に、誰よりも鋭く

自らの音楽を見抜く先生の存在を見ていた。

そうした時に、何千人の拍手があっても、

自分の未熟を見抜く先生の眼差しを前に

とても喜ぶ気にはなれなかった。 

逆のこともあるのではないでしょうか。

様々な人の批判にさらされたとしても、

信頼する先生が評価してくれるならば、

たった一人の評価によって勇気を得ることが出来る。


3.私は今ある
 
29節
「信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと

同じように紅海を渡りました。

エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、

水に飲み込まれてしまいました。」


モーセが先導するエジプトを脱出したイスラエル人。

一度はイスラエルがエジプトを出ることを

ファラオは認めるのでありますが、

直ぐに労働力としてのイスラエルが惜しくなり

追手を差し向けるのです。

逃げるイスラエル人の前に海が立ちふさがる。

後ろからはエジプト兵が追いかけてくる。絶体絶命であります。

しかし、モーセは叫びました。

出エジプト記14:13
「それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。

しっかり立って、きょう、あなたがたのために

行われる主の救いを見なさい。」


前は海、後ろはエジプト兵。絶体絶命。

しかしモーセはそこに主を見ていた。

だから望みがあった。その望みの内に、

彼らはついにエジプトを脱出することが出来たのです。 

しばしば紹介するヘンリー・ナウエンという

カトリックの司祭がおりました。

素晴らしい霊的な励ましの本を多く残された方でありますが、

あのヘンリー・ナウエンにしてやはり深い悩みに

陥ったことがあったそうであります。

そこで彼はマザーテレサに相談にいきます。

ヘンリー・ナウエンがマザーテレサに面会した際

、様々な悩みを聞いてもらって、

そこでマザーテレサが語ったことは

「Brother、あなたは朝早く起きて神様を賛美しなさい」

というのが結論の言葉であったそうです。 

ナウエンはもっと具体的な言葉、尊敬するマザーテレサが

自分の体験を交えて彼女にしか与えられない

励ましやアドバイスをくれると期待した。

けれども、マザーが語ったことは

「あなたは神様を賛美しなさい。十分に祈りの時間を持ちなさい。

そこから生まれてくるあなたの行動であれば大丈夫だ」


とそのことだけを語ったそうであります。 

ナウエンの期待は裏切られる。

けれども、やがてやっぱりマザーテレサが与えてくれた

アドバイスが最上のものであったことに

気がついていったというのです。

神に祈り、神さを賛美し、そうやって答えの見えない

真っ暗やみの中に、しかし神様がおられることを認めていく。 

私たちも同じではないでしょうか。

皆さん一人一人が色々な問題を抱えておられると思います。

何か答えを求めて、状況が変わることを求めて、

特別な助けがあることを求めておられるかもしれない。

けれども、そうやって目に見える助けが無かったとしても、

そのあなたが抱えておられる問題の只中に神様がいてくださる。

この世界をお創りになられ、今も総べ治め、

あなたを生かしておられる神様がその問題の中にいてくださる。

そのことを祈りによって、賛美によって、

御言葉によって認めるならば、私たちはもう恐れる必要は無い。

すでに私たちは救いに与ったも同然の者である。

神様は、はじめてモーセにご自身の姿を現してくださった時に、

ご自分の名を「わたしはある」という者である、と明かされました。

ヘブル語では「ヤハウェー」

ギリシャ語では「エゴーエイミ」

英語では「アイアム」。 

聖書の神様は「わたしはある」というお方です。 

ある人はこの言葉を「私は存在する」と説明しました。

神様の御存在は、この世界の一切に先立っております。

一切に先立つ存在として、神様を説明する言葉は存在しません。

ただ「アイアム」「わたしはある」と言うお方なのです。 

アウグスティヌスという神学者は

「“わたしはある”とは“私は今ある”という言葉だ」

と説明しました。神様の存在が過去になることが無い。

永遠に存在なさる方として、

いつも“今生きておられる方”、だから「わたしはある」。 

「私は今存在している」

子どものことを考えたら良く分かる。

小さい子どもが親が居ない中で心配で、

不安で泣きじゃくっている所に

「お父さんだよ、お母さんだよ」と声が聞こえたら、

子どもはその名前を聞いただけで安心します。

理屈ではありません。

「お父さんが、何々してあげるから大丈夫だよ」

とか「お母さんはこれこれが出来るから心配いらないよ」

とかそういう説明はいらない。

「お父さん、お母さんがいる」存在そのものに

子どもは安心するのです。

12弟子たちが嵐の中で恐れまどっていた時に、

「わたしだ」とイエス様の声を聞いて、

それでもう話しは終わってしまうのです。

イエス様が現れて、どうして下さった、こうして下さった、

どのように嵐が治まって、そんなこと書いてない。

「わたしだ」というイエス様の言葉によって、

あのガリラヤ湖での嵐の出来事は終わってしまった。 

神様が「わたしはある」というお方である、

とはこういうことです。 

信仰と言うのは、今この瞬間・この状況の中で

「わたしはある。わたしは今ある」

とおっしゃってくださる神様を認めること。

私たちの今に、永遠なる神、全能なる神様が触れて下さっている。

そのことを信じ、そのことに信頼して、

目に見えない神が確かにおられることを信じて生きること。

死に向かって刻々と進んでいく私たちの人生。

その現実を正面から見つめてどうやって希望を

持つことが出来るのでしょうか。

「わたしはある。私は今ある」

そうおっしゃってくださる神様をあなたの人生に認め、

迎え入れ、主として仰ぐ。そのこと以外に、真の望みはありません。 

このような時代の中でも、ここに神は今生きておられる。

そう信じる者は、モーセのように生きられる。

ここにおられる神様の偉大さゆえに、

私たちは勇気を持って生きられる。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。