「地上では旅人」ヘブル11:8-19 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「地上では旅人」ヘブル11:8-19

1.約束の地で他国人のように

信仰とは何か。ヘブル書はここまで様々なことを教えてきましたが、

11章にいたってついに信仰の真髄について語ります。

そのことを理屈として説明するのではなく、

正に信仰に生きたと言える旧約の信仰者たちの姿を提示し、

彼らが示してくれた信仰を学ぼうとするのです。

先週の個所においてはアベル・ノア・エノクの名前が挙げられました。

今晩の個所においてはアブラハムの信仰が語られていきます。

ずば抜けて多い分量がアブラハムについて割かれています。

当然のことでありましょう。

彼はイスラエル民族の先祖であり、そしてまた私

たちキリスト者の信仰の父とも言える。

私ども一人一人がアブラハムの信仰の血筋を受け継いでいる。

8節
「信仰によって、アブラハムは相続財産として

受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、

それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」


創世記11章を見ますと、アブラハムがまだアブラムと呼ばれていた時代、

彼は神様によって特別な招きを受け

約束の地へ旅立つよう導かれます。

この時アブラハムはまだ真の神を知らない異教徒であった

と考えられています。

そのようなアブラムが神の声を聞き、先祖伝来の地ウルを旅立ち

神の導きに身を委ね歩き出した。ここに信仰の歴史が始まっていく。

私たちが受け継いでいる信仰の血筋が

ここに始まったと聖書は教えるのです。 

そうやってやがて神の示す約束の地カナン・イスラエルに

着いた時に9節でヘブル書はこのように語っています。

「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、

同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。」


興味深いことをヘブル書は記しています。

神様の促しによって故郷を旅立ち約束の地に辿りついたアブラハム。

そこで彼は約束された地に辿りつき、そこに安住した、のではない。

約束の地で他国人のように住んだ。

もちろん、彼らがカナン、現在のイスラエルに到着した時に

そこには先住民族であるカナン人がおりましたから、

そういう意味でアブラハム一行が神様に導かれたとはいえ

他国人として生活する必要があったという意味はあるでしょう。

けれども、ヘブル書が語っていることはそういうことだけではない。

アブラハムは一族で天幕生活をした、というのです。

天幕というのは今でいえばテントです。

つまりその場所を永住の地と定め、家を立て

生活を始めることをしなかった。移住者が使うテントで暮らし続けた。 

なぜでしょうか?

せっかく神様が導いてくださった約束の地に着いたのに。

まだまだ旅が続くと思ったのか。

こんなところに定住など出来るか、と思ったのか。

そうではありません。 

なぜアブラハムは与えられた約束の地で土地を持たず

よそ者として生きたのか?

10節にその答えが記されています。

「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。

その都の設計者、また建設者は神です。」


アブラハムをカナンに導かれたのは神様です。

神様が彼に与えてくれた地であった。

しかし、そこでアブラハムはそこに基礎を定めるのではなく、

その場所から天にある都を待ち望んだ。

アブラハムだけではない。彼の妻サラも息子イサクも、

皆そうであったというのです。

誠に示唆に富んだヘブル書の記述であります。

2.バベルの塔

私たちはどこで何をすべきか?

自分の人生に相応しい場所を求めて歩き、

一番良いと思える場所に基礎を定め、そこに根差して生きることを決める。

けれども、神様はそのような私たちに

「私が導く約束の地に来なさい」と命じられるのです。

そういうことが私たちの人生には起こるのです。

それは一度では無く、幾度も経験することなのかもしれません。

そして私たちは行く場所、行く場所に

備えられている神様の恵みに与っていく。

「ここは良い場所だな」そう思った時に

神様はまた「さぁ私が導く約束の地に出て行きなさい」

とおっしゃる。そして新しい場所においてまた神様の恵みを経験する。

そのようにして、段々と私たちは悟るようになっていくのです。

私を祝福してくれるのは、この土地では無い。この場所では無い。

私を導いてくださる神様によって私はどこに居ても、

どこにおいても祝福されるのだ。 

そのようにして、私たちは本当に基礎を定めるべき場所が

どこにあるのかを悟るようになっていく。

13節
「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。

約束のものを手に入れることはありませんでしたが、

はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、

寄留者であることを告白していました。」

という御言葉がございます。

自分は伊東に生まれ、伊東で育ち今に至り、

そしてきっと伊東で死んでいくのだろう。

そう思っていた人が、主イエスに出会い信仰を頂いた時に、

そのことの間違いに気がつくのです。 

私は神によって創られ、神によって生み出された。

神の国に属する者であり、この地上に派遣されている者。

そして、やがてまた神の国に帰って行く者なのだ。 

ヘブル書に、アブラハムは地上では旅人であることを弁えていた、

と書かれているのは正にそういうことです。

バベルの塔の物語を思い起こします。

それまで移住生活をしていた民が、初めてシヌアルの地に定住をした。

移住生活は常に先の目得ない不安定さとの戦いでした。

明日の生活が保障されない。

そして、直ぐに別の場所に移るわけですから、

一つの場所に大きな建造物を作る。

自分の家を建てる、自分の土地を確保する、

そういうことは考えられなかった。 

しかし定住生活が始まると、その場所に落ち着いて建物を建て、

産業を興し、充実した環境を整える余裕が生まれるのです。 

そうした中で飛躍的に発展していくのが建築技術。

生活の安定の中でもたらされたゆとりです。

生活が潤う、快適になる、これは神様の祝福ですから

感謝して受け取れば良いことです。

しかし、そこに落とし穴がある。 

移住生活においては、粗末なテント暮らしをしていました。

それが、立派なレンガ造りの家を手に入れる。

「感謝、感謝」かと思いきや、人間の心はそうは動いていかない。

 4節
「そのうちに彼らは言うようになった。

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、

名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
 

彼らの心は「頂が天に届く塔を建てよう。そうして名をあげよう」、

生活が安定すると途端に神を求めなくなる。

自分たちの力で生きていこうとする。

自分を神にしようとする、罪人なる人間の本性です。 

私たちが覚えていなければならないことは、

私たちにとって不安定な要素、十分ではない事柄というのが、

実は私達の人生を健全に守る役割を果たしているということです。 

移住生活をしていた時には、常に先の見えない生活です。

極当たり前のこととして祈りに導かれる、神の助けを求めるのです。 

しかし、表面的に安定すると途端に、これまで考えもしなかった

ようなことを考え出す罪深い人間。 

「頂が天に届く塔」、そんな物作って何になるでしょうか

明日の食べ物も保障されない時に

「天に届く塔を建てないかい」と言っても、

そんなこと誰も相手にしないはずです。

しかし、安定と余裕の中で人間の心はとんでもない方向に向ってしまう。 

こうして、神の怒りが降り人類の言葉はバラバラにされました。 

3.イサクを捧げよ

ヘブル書に戻りまして、アブラハムは故郷ウルの地を出て

イスラエルに導かれてからも、定住者らしい生活を

しなかったと記されています。

創世記を読んでいくと墓を持つこともしなかった。

ですから妻サラが死んだ時には葬りの場所にも

苦慮したことが書いてあります。

そうやってアブラハムは安定を得ることによって、

神により頼む信仰を失うことを遠ざけたのです。 

その一つの頂点と言えるできごとが

17節
「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときに

イサクを献げました。約束を受けていた彼が、

自分のただひとりの子を献げようとしたのです。」




長年子を得られなかったアブラハム・サラ夫妻が

得た年寄り子イサク。そのイサクをモリヤの山で献げよ、

という考えられない命令を神様はくだされました。

結果として神様はモリヤの山の頂きに

イサクの代わりとなる羊を用意してくださいました。

しかしアブラハムは内面的には自分の子を神に献げたのです。

そうして

19節
「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせる

こともできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、

イサクを死者の中から取り戻したのです。」

どういうことでしょうか?

神はイサクを生かすことができると信じた。

死者の中から蘇らせることができる。 

それは文字通り復活を信じる信仰として読むこともできますし、

また愛する息子を神に献げる事の中ではじめて本当に

イサクを生かすことができる。

そういう信仰としても読むことができるでしょう。

私たちは人生の歩みの中で神様から沢山の物を頂きます。

別に大金持ちでなくてもたくさんの所有物があるでしょう。

そうやって神様から頂いた恵みは、

果たして所有権も私に移っている私個人の所有物なのか?

それともあくまでもお預かりしているものなのか?

そのことをはっきりとしておかなければいけません。 

神様が私達に与えて下さる恵の全ての所有者は神様であります。

そしてそれは不幸なこと、マイナスのことではありません。

その逆に、神様が所有者であり続けて下さるからこそ、

私達の預っている一つ一つのものに命が続くのです。

家も、家族も、財産も、仕事も、教会も、友人も、

皆神様が私達に与えそして使わせて下さっているものです。 

しかし何時の間にか、預かり物であることを

忘れてしまうとどうなるか。

私達は「これは私のもの、誰も触らないで」

と自分の思い通りにしようとする。

これだけは絶対手放さないと言う。 

そうやってせっかく預けてくださった神様の賜物を

死んだものとしてしまう。

私達が神様から奪い取った瞬間に、

その恵みは息絶えてしまうのです。

「イサクを捧げよ」と言う神様のご命令、

これはアブラハムだけではない。

私たち一人一人にも大切な意味を持っています。

イサクの所有者が神様であることをアブラハムに

決然と知らせる言葉でありました。あなたの自由にしてはいけない。

私のものだから、あなたはイサクを手放しなさい。 

これは神様の意地悪ではありません。

アブラハム・サラ夫婦にとって自分のいのちよりも

大切な愛する子イサク、このイサクを自分たちの手の内で

殺してしまうことが無いように。

神の御手によってイサクが本当に生きる道を

神様は与えようとしてくださったのです。

親は子どもが愛おしいゆえに、自分の手でしっかりと

握り守り育てようとするのです。

しかし、その手が結果として子どもを苦しめ

成長を阻む手になってしまう。

自分が手放し神様にお献げした時にこそ、イサクは真に生きる。 

これもまた、アブラハムの地上を旅人して生き抜いた

信仰と言うことが言えるでしょう。

宗教改革者マルチン・ルターは言いました。

「私は多くのものを握り締め、そしてそれらを全部失った。

しかし神の手にお渡ししたものについてはすべて、

ずっと持ち続けている。」


C.S.ルイスというクリスチャン作家もまったく同じことを言いました。

「私たちは、神様に捧げようとしているものだけを持つことが出来る。

自分のために取っておくものは、必ず失うであろう。」
 

確かにこの世界には二種類の生き方があるようです。

「自分が人生において得た物に執着し、

なんとしても失うことが無いようにとしがみつき、

結局すべてをダメにしてしまう人生」と

「自分が得た物を手放すことの中で新しい

神様の恵みの中に生かされる人」

その違いは、どこに私たちの人生の土台を据えるかです。

この世に根差す人の人生はどこかで古びていく。

しかし神様に信頼する人の人生は常に恵みが

更新され新しくされていく。 

それゆえに私たちは住み慣れた地ウルを出ていけ。

新たな地に迎えとのご命令をいただくことがあるのです。

様々な要因があるでしょうが、それは多くの場合

マイナスと思えるような事柄を通して与えられます。

病や体の衰え、経済的な問題、仕事が上手くいかないこと、

子どもたちが成長し巣立っていく、そんなきっかけを通して

慣れ親しんだ地や、仕事、自分がどっぷりと根付いていた

その場所を離れざるを得なくなることがある。 

そこで私たちが大切なことは、住み慣れたウルの地を旅立って、

約束の地カナンについて、今度はそこに土台を据えて

人生を建て上げることではなくて、

9節にあるように

「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、

同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。」


私たちが頼りにしていたものが一つ、また一つ取り去られる時に、

その代わりになる何かを必死に探し求めることではなく、

そうやって一つ一つ失う中でより一層天に根差していくこと。

天の故郷に自分の存在の基礎を見出していく。

私たちに求められていることは、ウルからカナンに

移ることではないのです。

そのような機会を生かしながら、地上から天上へと

属する場所を変えていくこと。

自分の存在が根差す場所を変えていくことが求められている。

生涯をかけてそのことを学んでいくようにと召されている。 

お一人一人のウルがどこにあるのか、

手放さなければいけない場所がどこにあるのか、

そこから出て行きなさいと神様はおっしゃっているのかもしれない。 

そしてまた、正にそのような渦中にある方が

いらっしゃるかもしれません。

その時に見える物を失う悲しみに増して、

見えない物を得る望みに目を向けていただきたい。

私があなたの人生の主である、

神様はそのことを私たちに教えてくださっているのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。