「主を仰ぎ見る場所」ヘブル11:4-7 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「主を仰ぎ見る場所」ヘブル11:4-7

1.目に見えるもの、目に見えないもの

前回からヘブル書の11章に入りました。有名な信仰者列伝の章です。

今晩の4節からいよいよ入って参ります。

その序文のように1節の御言葉がありました。

「信仰は、望んでいることを保証し、

目に見えないものを確信させるものです。」


ここにはっきり信仰とは何かが記されています。

信仰とは目に見えないものを確信させるものである。 

そして3節の御言葉を通して、私たちが目に見ている様々なもの、

現実と言える物が目に見えないものから生まれているということ。

一切の源は目に見えない神である。

そうであるならば、私たちが頼りにすべきことが

作られた目に見えるものではなく、目に見えるものを

お創りになった目に見えない神様であることが分かる。

 
中世の終わり、トマス・アクィナスという大神学者がおりました。

この時代の教会に、普遍論争と呼ばれる問題が起こります。

普遍と特殊について、「普遍実在論」と「唯名論」という

二つの立場が生まれます。 

どういうことかと申しますと、ここに10名の方が

集まってらっしゃいます。一人一人個性的で

同じ人間は一人としていない。

けれども、私たち全員が「人間」というくくりの中にある。

それは果たして正しいのかどうか、というこういった論争です。

普遍実在論の立場においては、ここにいる一人一人の

固有性・特殊性に先だって「人間」という普遍的な存在があると主張し、

唯名論の立場においては、「普遍」などというのは便宜上のことで、

実際には「人間」などといってくくることのできない

特殊な一人一人が存在しているのだ。

目に見える存在がすべてだ、という考え方。 

キリスト教会というのは元々それまでの歴史の中で

は圧倒的に普遍実在論に近かった。

目に見えていることというのは、目に見えないことの影に過ぎない。

実態は天の神様の下にあって、その影を私たちは

地上で見させて頂いているにすぎないのだ。

これが教会の考え方でした。 

しかし、現実主義のイスラム教から激しい攻撃を受ける中で、

教会はトマス・アクィナスの個の特殊性。

目に見えるものの意味や価値を認めていく普遍と特殊の調和を

求める神学に救われ、大きく方向転換をするのです。

 
ここでヘブル書は目に見えるものと、目に見えないものを

比較しながら、本当に大切なものは目に見えないものであると教えます。 

パウロも第二コリント4:18でこのように教えています。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ

目を留めます。見えるものは一時的であり、

見えないものはいつまでも続くからです。」


私たちは信仰によって目に見えないものの、

目に見えるものに勝る確かさを見抜いていく。

それが信仰だと言えるでしょう。

一方で、信仰者が陥る一つの過ちは、そうやって

目に見えないものに望みを置くことによって、

目に見えるものから逃避していってしまう。

目に見えるものを軽んじ、目に見えない世界に逃げ込んでいく、

そういう危険性というのがある。

けれども、私たちが目に見えないものの確かさを

信仰によって学ぶということは、そのことによって

目に見えるものに正面から向き合っていく力を得るということ。

即ち、目に見えないものの確かさを知っている私たちこそが、

目に見える物事に誰よりも誠実に向き合って

いけるものでなければいけない。

そうでなければ、真の信仰とは言えないでしょう。


2.神の御前に歪み無く立つ

信仰者列伝には信仰に生きた旧約の偉人たちの名前が列挙されていきます。

目に見えないものを信じた信仰の偉人達。

彼らは決して、現実から離れた浮世離れした人々ではありません。

現実に生きた人々です。見えない神の確かさへの信頼ゆえに、

目に見える世界を真実を貫いて生きた人々。

私たちも、そのような信仰を学んでいきたい。

教会の中でしか価値の無い信仰ではなく、

教会の中で養われそしてこの世で生かされる信仰を学びたいと思うのです。

4節で最初に出てくる名前はカインとアベルです。

「信仰によって、アベルはカインよりも優れたいけにえを

神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であること

が証しされました。神が、彼のささげ物を

良いささげ物だと証ししてくださったからです。

彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」


最初の人アダムとエバの二人の息子たち、カインとアベル。

ここでヘブル書は弟アベルを最初の信仰の偉人として紹介します。

最初の人アダムが神様によって創造され、

エデンの園で何不自由なく過ごしていたのですが、

神との約束を破り禁断の木の実を食べてしまうことで、

エデンの園を追い出されてしまう。

そのような出来事が創世記3章まで記されております。

そして4章に至りまして、最初の女性エバが

カイン・アベルという男の兄弟を出産し、その兄弟が成長します。

兄カインは農夫となり、弟アベルは羊飼いになる。 

カインがアベルを殺害する、兄弟殺しという

悲惨な事件が起こるのです。 

彼らがそうやって成長していった時に一つの事件が起こる。

二人の関係が壊れてしまうのです。

そのきっかけは創世記4章4節から

「アベルもまた彼の羊の初子の中から、

それも最上のものを持って来た。

主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。

それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」
 

それぞれに与えられた実りの一部を神にお献げする。

神への献げ物。

しかしアベルの献げ物に目を留めて下さった神は、

カインの献げ物には目を留められませんでした。 

そのことの説明は6・7節になされています。

「そこで、主は、カインに仰せられた。

「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。

ただし、あなたが正しく行っていないのなら、

罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。

だが、あなたは、それを治めるべきである。」
 

意味深なことを神様はおっしゃっている。

直接的な言及はありません。

ただ、何がしかカインは神への献げ物において

不正を働いたのであろうことがわかります。 

4節において、わざわざアベルが最上の羊を献げた

ということが書いてありますので、恐らくカインは

その逆のことをしたのでしょう。

良く出来た作物を自分の物としてキープしておいて、

神様には上げても惜しくない二番目・三番目の作物を

お献げしたことが想像できます。 

カインにはこの言葉で神様が何をおっしゃっているのか

全てわかったのでしょう。

この出来事が、兄弟二人の関係を破滅させることになるのです。

8節
「しかし、カインは弟アベルに話しかけた。

「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、

カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。」

主はカインに言われました。

「あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、

あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」


「あなたは正しくない」とはあなたは歪んでいるということです。

そして歪んだ時に何が起こるか。

戸口に待ち伏せている者に捕まってしまうというのです。

罪が戸口で待っていて、その虜にされてしまう。 

ここにカインの問題の中心が明らかにされています。 

神がカインを創造して下さった、

カインらしさ、カインとしての歪み無い心を、

神の前に保つことが出来なくなってしまった。

神の前に正しく立つよりも、姿勢を変えて得られる

何がしかが自分の幸せであるという思いを止められなかった。 


このようにしてカインの過ちを見て来た時に、

ヘブル書が評価しているアベルの信仰が

はっきりと見えてくるのではないでしょうか。

ヘブル書に戻りまして4節

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれた

いけにえを神に献げ、そのいけにえによって、

彼が正しい人であることが証しされました。

神が、彼のささげ物を良いささげ物だと

証ししてくださったからです。

彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」

ヘブル書はアベルのいけにえがカインよりも優れていたと語ります。

そこで「優れている」と評価されている

価値観が何であるかは明らかです。

神の御前に歪み無く立つということ、正しく立って捧げる、

このアベルの神様に対する姿勢が優れた献げものと

喜ばれることであったのです。 

カインにはカインの事情があったでしょう。

私たち一人一人の人生が複雑であるように、

カインにも何かこのようにして1番良い物を神様に捧げられない

事情があったのだろうと思う。

その年は特別凶作の年であったのかもしれないし、

良い作物を手放してしまう訳にはいかない

原因があったのかもしれない。 

けれども私たちが様々な事情に目を奪われ、心を奪われ、

あれこれ考えだすことと、神様の御前に正しく立つことが

相いれなくなってしまう。

この世への心遣いと神様に対する心遣いが

両立しないことが起こる。

そのような中で私たちはどうするかが問われるし、

何を優先するかが問われるのです。 



3.「主を仰ぎ見る場所」

最初の話しに戻ります。

見える世界と見えない世界。

見える世界の中で様々なことが起こる。

その時、見えない神様の世界・普遍的な真理を無視して、

とにかく見える世界のことに集中してしまう生き方。

そういう目の前の出来事、現実性にその都度集中してしまう

生き方は結果として私たちの人生を破綻させてしまう。 

やはり、色々なことが起こる日々の生活の中でこそ、

私たちの方が基準を持っていないと。

私はこれを重んじる。私の信じるものはこれである。

そうやって目に見える世界で貫ける、

見えない真理を持っている必要があるでしょう。

一方で、逆の問題もあるわけです。

例えばアベルが一番良い家畜を神様にささげた。

けれども、そのアベルの家にも事情があったかもしれない。

やはりその年は色々と苦しいことがあって、

傷の無い家畜を神様に捧げてしまうことで

現実的に問題が起こると言うことがあったかもしれない。

例えば私たちでいえば、この信仰を貫くことで家族が困る、

子どもが困る、部下が困る。

その時に「これが私の信仰だ。関係ない」と、

家族のこと、子どものこと、同僚のことなど

一切考えることの無い現実に対する

盲目的な信仰が正しいのかと言えば、それも違うと思うのです。

信仰に生きることによって悩みが無くなる、迷いが無くなる、

確かにそういう面はありますけれども、

しかしそれだけが強調される信仰は健全な信仰では無くて、

盲信であったり、マインドコントロールであったり、

不健康な信仰だと思います。

信仰が深められることによって、むしろ悩み深くなる、

そういう面が確かにあるのです。

信仰というのは、神様に対する知識・感性を深めて行くものです。

何が神様の喜びになるのか、何を神様が望んでおられるのか、

そのことの理解が深められていく。

一方で、正しい信仰は隣人についての理解・感性を深めるものです。

今まで気がつかなかった、その人の思いや悩み。

今まで「この人はこういう人」と決めつけて裁いていた

相手の姿に、良いところが見えるし自分には無い長所が見えてくる。

逆にこれまで素晴らしい人と思っていた相手の中に

問題や過ちが見えてくる、そういうこともあるでしょう。 

そうやって神様についての理解が深まり、人についての理解が

深まっていく時に、何が良いことか。自分はどうすべきか。

この問いはドンドン複雑になっていくのは当然です。

今まで悩むことの無かった、

迷うことの無かったことを考え込んでしまう。

そういうことが起こっていく。 

信仰とは正にそういうものであって、

目の前に起こる様々な事柄の背後に常に

目に見えない神様の存在を見定めている。

そしてまた目に見えない神様を通して

目に見える様々な事柄を直視している。

誰よりも神様を真っすぐに見つめ、一方で誰よりも

現実の出来事に誠実に目を向ける。 

クリスマスにお生まれくださったイエス様は

人となって地上に来てくださったお方です。

人となって人々の中に住まい、人々の生活の中に

人として生きてくださった。

人の痛み、人の欠乏、人の不安、人の恐れを、

人として常に身近に感じながら、そこから

神を見上げておられたのです。

そしてその中に、救いの道を備えてくださったのです。

私たちが生きるべき信仰の場所は正に、

このイエス・キリストの姿の中にあるのです。 

アベルもエノクもノアも、現実からかい離した

信仰が評価されているのではない。

現実の中で神を見上げ、神の喜びに生きた

信仰が評価されているのです。

6節でヘブル書の著者はこのような素晴らしい言葉を記しております。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、

神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、

信じなければならないのです。」


私たちに信仰が求められている。

その信仰とは盲信して現実が見えなくなった、

キリスト者の正しい言葉ではありません。

神を知り、人を知り、その狭間に立ちながら

なお絞り出すようにして生まれてくる神への信頼の言葉。

たった一つの言葉でも良い、たった一つの行動でも良い。

狭間に立ちながら、なお神を志向する一つの献げものを

神様は喜んでくださる。その信仰に神様は報いてくださる。

神様はエゼキエル22:30でこのように言われました。

「わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を

彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」



破れ口というのは、町を取り囲む城壁に出来た綻びのことです。

敵に攻められて、そのほか様々な事情の中で城壁が傷んでいる。

早く直さなければ、必ず敵がそこを狙ってくるのです。

しかし城壁の修復というのは容易ではない。

城壁によじ登っている内に落っこちたら命に関わるし、

敵が迫っている中で城壁を直すというのはそれこそ

捨て石になる覚悟をしなければいけないことであった。 

それでも直ぐに手を施さなければ城全体。

そこにいる全ての人々の命が失われてしまう。

ですから、城を救うために命を投げ出して

破れ口に立つ勇者が求められたのです。 

神様が私たちに求めておられるのは、

立派な場所に立ち勇ましく戦う者では無く、

破れかけた場所、痛んでいる場所、綻んでいる場所に寄り添い、

その修復のために自らの命を投げ出す、

そのような信仰者を求めておられる。

破れ口で私を見上げることができる真の勇者は居ないのか。
 
信仰が無くては神様に喜ばれることはありません。

信仰はどこに働くのでしょうか。

城壁の上に立つ勇ましい言葉の中にではなく、

破れ口に寄り添い痛む者の中に。

そこに見えない神の望みが

目に見えるものに増して表れるのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。